新説・日本史講座

【新説 日本史講座_005】古代日本の基礎知識⑤~法華滅罪之寺/空海と景教

更新日:

日本への景教伝来

[隠された十字架の国・日本~逆説の古代史]より

P98-99
景教徒は日本にもやって来た
記録によれば736年6月、景教の宣教師であり外科医でもあった「李蜜医(りみつい)」(李蜜翳りみつえい)というペルシャ人が、日本にやって来ました。また彼と一緒に、
「景人・皇甫(こうほ)」という景教の教会の高位の人物と思われる人たちなどもやって来ました(続日本紀しょくにほんぎ・8世紀)

「景人」とは景教徒の意味です。彼らはその11月に、聖武天皇から位を授けられています。
李蜜医や皇甫は宣教師でしたから、皇族に対し、基督教の伝道をしました。そして皇族の中に、それが広まっていったようです。

聖武天皇による「国分寺建立の詔こくぶんじこんりゅうのみことのり」(741年)の一節に、
「あまねく景福を求め……」とあります。これは景教的幸福の意味で、中国の景教徒たちが使っていた景教用語です。

さらに、この詔では、国分尼寺こくぶんにじを「法華滅罪」の寺と呼んでいます。仏教には本来、「罪」の意識はありません。なのに、「滅罪」という言葉が生まれてきた背景には、景教の影響があると言われています。

今も毎年宮中で演秦される雅楽の「越天楽(えてんらく)」についても、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と、日本雅楽会会長・押田久一氏は述べます。

李蜜医と一緒に日本に来た皇甫は、宗教音楽の伎楽(ぎがく)関係者でもありました。古代の日本に入った基督教は、意外なところに影響を残しているのです。日本の伝統音楽も、景教の影響を受けているのです。

国分尼寺:正式には『 法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)』といいます。
この名前が表す内容は非常に重要です。

基督教では人は生まれながらの罪人だと説きますが、仏教では原罪という概念はありません。仏教においての罪とは、『罪業ざいごう』とも呼ばれ『戒律に違反する行為』を意味します。

因果応報の理を持つ仏教では、人間は罪を犯せば必ずそれに対する何らかの報いを受けると説きます。
滅罪とは、迷いの世界に生死輪廻しょうじりんね(生まれ変わり死に変わりを繰り返す)原因となる罪悪を除滅すること。自らが犯した罪や悪業を告白し反省することによって、それらの除滅を期することを、懺悔滅罪さんげめつざいといいます。

仏教では、罪を犯す(戒律を犯す)のは無知(無明)から来ているのだから、仏法を熱心に学ぶことが重要だと説きます。罪を滅することより、無知からの脱却のほうが重要なのですから、『滅罪の寺』というように、罪をことさら強調しているのは仏教的でない可能性も否定できません。

たしかに滅罪という言葉が生まれてきた背景には、景教の影響があったのかも知れません。

景教の影響を受けた光明皇后

P100-109

聖武天皇の后、光明皇后(701~760年)は、景教の影響を大きく受けた人でした。
光明皇后は、夫である天皇から許可をもらって、身寄りのない貧窮の人、病人や、孤児などを収容した公設の救護施設『悲田院(ひでんいん)』を奈良の都につくった。

また、無料で病人に薬を分け与える『施薬院(せやくいん)』、無料で病人を世話する『療病院(りょうびょういん)』などもつくった。

奈良の法華寺には、光明皇后が患者の膿を吸って吐き出したという浴室が、今も残されている。皇后自身が、病人の背中をそこで洗って上げたというのだ。

池田栄教授が、光明皇后がこのように愛に生きた背景には景教徒・李密医の影響があったと、書いているのも読みました。光明皇后について書かれた日本の一般の書物を読むと、多くの場合、光明皇后は仏教を篤く信奉していて、このような慈善を行なったと書いてあります。しかし実際には、当時の仏教徒の間には、このような慈善の考え方や実践はなかったのです。

光明皇后の夫、聖武天皇は、あの「奈良の大仏」で有名な「東大寺」を建てた人として有名です。ところが、東大寺二月堂の「お水取り行法」の中に、景教の儀式に類似したものが多くあることが指摘されています(マリオ・マレガ「修二会(しゅにえ)の行法と西アジア原始キリスト教の儀式」『お水取り』1966年、三彩社刊

8世紀というような大昔に、景教はこの日本で大きな光明を放っていました。

光明皇后は即位と同時に皇后宮職こうごうぐうしき(後に紫微中台しびちゅうだいと改称)を設置し、執政や社会事業を行う拠点とし、貧困者や孤児などを救済する「悲田院」、病人のための医療施設「施薬院」をつくり、自ら献身的に慈善活動を行いました。

これらの組織は光明皇后の私財を投じ国からの制約を受けないようあえて宮外につくられました。

光明皇后がこれらの慈善事業を積極的に行ったのは、おそらくキリスト教の信仰を持っていたからであろうという説は大いに説得力があります。

貧しい人のために施しをするというのはキリスト教的であって、仏教では慈善活動というのは(基本的に)重要ではないからです。

妙法蓮華経分別功徳品第十七みょうほうれんげきょうふんべつくどくほんだいじゅうなな』にはこうあります。

受持読誦 是経典者 為已起塔 造立僧坊 供養衆僧
(是の経典を受持し読誦せん者は これすでに塔を起て 僧坊を造立し 衆僧を供養するなり)

『七宝の塔を建て、お寺を造り、多くのお坊さんを供養しなくても、南無妙法蓮華経を唱え法華経の経巻を供養すればそれらと同等の功徳(ご利益)がある!』ということなのです。
さらに、功徳のなかでも最も重要なのが広宣流布こうせんるふ(布教活動)なのです。

キリスト教は病気や貧困で苦しんでいる人のことを『前世で悪行を積んだから』というふうには捉えません。仏教はすべての事象を因果応報のフィルターを通して見ますから、病気や不幸の原因は今生の悪行か前世でつくった悪行と捉えます。

キリスト教は、目の前に不幸な人があれば救ってあげたいという思いが形となって慈善活動を行います。ところが仏教では、現在の不幸な出来事は『前世か今生で悪い種を撒いた結果』なのだから、病気を治したり貧乏から脱却するには、南妙法蓮華経を一心不乱に唱えよ!ということになります。

日蓮は、このあたりの言動が明確でした。仏法は法華経に極まれり!
浄土宗のように念仏を唱えている者は地獄に堕ちる!とか、キリスト教をはじめ他の宗教は全部邪教だと言って斬りまくったのです。これは日蓮独自の思想ではなく法華経にそのように書いてあります。

法華経をひろめることが最大の徳積みなのですから、第一優先は布教!布教活動に邁進するのは当然のことなのです。ですから、目の前に貧困で喘いでいる人がいても、施しをするなどの慈善活動はしません。上野公園でホームレスのための炊き出しをやっているのはみなキリスト教団体です。

仏教とキリスト教の違いをちょっと極端に表現してしまったかもしれませんが、仏教とキリスト教はこのように根本的に違うのです。そう考えると慈善活動に人生を捧げた光明皇后は、仏教よりもキリスト教のほうがしっくり来ます。

では、なぜ光明皇后が『法華滅罪の寺』と呼んだのかといえば、長屋王の変に代表されるように兄弟たちが政敵を殺しており、それに対する藤原一族としての、罪の意識があったからではないでしょうか。

やがて、天平の疫病大流行てんぴょうのえきびょうだいりゅうこうにより、藤原四兄弟が天然痘で病死していきます。次々と兄弟たちが死んでいく……これは長屋王の祟りではないかと恐れ慄いたことでしょう。

その罪の贖いをしなければならないという思いから、法華滅罪の寺で全身全霊を傾けて功徳を積もうとしたのです。怨霊封じのような呪いまじないをしたとかではなく、慈善活動をしたのです。

ですから光明皇后の行いはキリスト教的であり仏教ではない、とこのように考える方が理にかなっているのではないでしょうか。

東大寺の大仏と八幡神

奈良の大仏として知られる東大寺盧舎那仏像とうだいじるしゃなぶつぞうは、聖武天皇の発願ほつがん(神仏に祈願をかけること)で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会かいげんくようえ(魂入れの儀式)が行われました。

宇佐の八幡神から『われ天神地祇てんしんちぎを率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん』という協力の託宣が出されました。これは、『八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させる』という意味です。

大仏鋳造直後の天平勝宝元年(749年)12月に、八幡神を勧請しています。
八幡神が大仏を拝するためにお供の女禰宜と一緒に神輿に乗って来たということです。

空海と景教

熱心に稲荷信仰を広めたという、弘法大師空海が開いた真言密教の総本山、高野山の奥之院に『大秦景教流行中国碑だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ』という石碑があります。

大秦景教流行中国碑拓本

この石碑は、中国西安にある碑林博物館所蔵のものを、イギリスの宗教学者エリザベス・アンナ・ゴルドン(Gordon, Elizabeth A.)夫人が忠実に再現して、模造碑として明治44年(1911年)に建立したものです。

P121-123

私はこういう話を、日本の古代史の学者として有名な方にお話ししたことがあります。ところが、「空海が景教の教えを取り込んだなんてことはありません」と否定するのですね。アカデミックな学者は、空海と景教のつながりが理解できない。

しかし、空海の伝えた仏教(密教)をよく知っている高野山のお坊さんたちは、「ええ、うちは景教から来ていますから」と、いとも簡単に認めるのです。私自身、高野山のお坊さんに聞いてみました。
「空海は中国で景教を学んだのでしょうか?」
「ええ、そうですよ。実際、今も高野山では、儀式の最初に十字を切ります。これは景教の儀式から来ています」
「明日朝五時半にいらっしゃい。ちょうど法要があるから、それに来れば見られますよ」
そう言われて翌日、参加してみました。たしかに礼拝の最初に十字を切っていました。
その風習が、密教に取り入れられている。お坊さん自身が、今も法要の最初に切る十字は「景教の儀式から来ています」と言うのです。

空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。
空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操ごんぞう」(758~827年)も、もとの姓を秦といいました。

空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。

最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。
つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。――これは高野山のお坊さんから聞いた話です。

高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。

一般に、九世紀に空海は唐の時代の中国にわたり、そこで仏教を学んで、それを日本に持ち帰って広めたとされています。空海が持ち帰った仏教は「密教」といって、シャカが説いた原始仏教とは似ても似つかない教えでした。ある学者は、それは”景教と混合した仏教だった”と述べています。

現存する最古の仏教の宗派であるスリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老:アルボムッレ・スマナサーラ師は、密教を仏教とは認めていないのは大変興味深いことです。むしろ危険視さえしています。それほど伝統的仏教から見た密教は異質であるということです。

密教は景教と仏教がミックスしたような宗教といえるのではないでしょうか。

P123-127

空海は中国にいる間に、景教に関してかなりの知識を吸収しました。彼が行った中国の長安には、すでに景教の教会が四つもありました。空海のいたところは、景教の教会のすぐ近くでした。

彼は景教徒の景浄という人物にも会ったと言われています。この景浄は、『大秦景教流行中国碑だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ』の碑文を書いた景教僧です。空海は他の景教僧とも、長時間にわたって会ったことが知られています。

空海はまた日本で、死に就こうとするとき、
「悲しんではいけない。わたしは…弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう」(仏教では、弥勒が現われるのは、約56億7000万年の未来とされている)
と言いました。将来人々を救いに来るという「弥勒」の出現のときに、自分も復活するというこの信仰は、原始仏教にはなかった思想です。

これはまさに、
”キリストが再臨 (再来)するときにクリスチャンは復活する”
という基督教信仰、景教の信仰と同じものです。

このように空海の説いた真言密教は、じつは景教と混合した仏教だった、ということが言われます。それは一つの理解です。 しかし別の学者は、もっと大胆な仮説を言っています。じつは空海は、日本で景教徒になったのだと。

彼は日本にいたときに、秦氏や景教徒にふれて景教徒になり、「もっと景教を学ぶために」中国へ行ったのだというのです。中国へ行ったのは仏教を学ぶためではなくて、じつは景教の本場でもっと学びたかったからだった。

そして彼は中国で景教を身につけて、帰国。高野山を一種の景教の修道院のようにしていた。

けれども、後世の人々は、やがて空海を”仏教の大宗教人”として宣伝するようになります。その際、後世の人々は、空海の言葉を全部仏教的なものに変えたりはしませんでした。だいたいの基本線は元のままにして、若干、幾つかのものを仏教的な表現に変える。

やはり空海への尊敬がありますから、そういうふうにする。こうして、「空海の教え」とされるものが後世に伝わっていったのではないか、と思われるのです。

こうした仮説は、ある人は、「行きすぎではないか」と思うかもしれません。しかし、後に述べる聖徳太子のこともそうですけれども、日本の歴史を見ると、仏教でないものが仏教に変えられてきたということが、実際何度もありました。それで私は、それもあり得ると思っています。

空海の説いた密教の儀式には、十字を切るという景教の風習が見られるだけではありません。ほかにも、景教の儀式を様々に取り入れているのがわかります。

密教には「灌頂(かんじょう)」という儀式があります。空海自身、それを立派な信者になったしるしに受けました。

しかし、灌頂は真言宗以前にはなかったものです。これはじつは、基督教の洗礼式を取り入れたものと指摘されています。

空海は灌頂を受けて、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を授かりました。「遍照」とは広く照らすの意味で、これは景教徒の訳した漢語聖書『マタイの福音書』5章16節の、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」から取ったものでしょう。空海が、自分の師、恵果和尚(けいかわじょう)から授けられた灌頂用の金属製の器は、ペルシャのものを真似たものと言われています。そして京教で香炉が使われていたように、密教でも火舎香炉(かしゃこうろ)を用います。

京都に、空海による真言密教の道場、東寺という寺があります。そこのある執行職の家に、十字架を使った秘密の祭があって、私の友人はそれを実際に見たことがあると言っています。それは明らかに十字架であったと。

また東寺には、「天使」を描いた古代基督教の美術様式によく似た絵があります(牛皮華鬘ごひけまん:1086年製作)。同じような天使の絵は、岩手県の中尊寺にもあり(華鬘)、さらに中央アジアの景教遺跡にも見いだされています。

中尊寺金色堂の華鬘:迦陵頻伽(かりょうびんが)

中尊寺の華鬘をモチーフにした郵便切手~1962年(昭和37年)発行:迦陵頻伽 紫

真言密教ではまた、病気平癒のための加持祈禱ということを行ないます。人々の病気が治るように祈ってくれるわけです。真言密教が民衆に広まったのは、この加持祈感ということがあったからです。仏教の他の宗派でも、加持祈禱を行ないます。

ところが原始仏教には、そういう病気を治すための加持祈禱というようなものはありませんでした。かつて中国において、景教徒たちは、人々の「病気平癒のための祈り」ということを盛んに行なっていました。仏教界が病気平癒の加持祈禱を始めたのは、それに刺激されてのことだったと、学者が述べています。

古代日本の基礎知識⑥へ続く

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【参考文献】
隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
・日本建国の秘密(中山真申)

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