平安京をつくった秦氏
P184-187
秦氏は、京都に「平安京」(8世紀末~)をつくることにおいて、中心的な役割を果たした人々でした。
彼らは高度な技術力を持ち、それまでも巨大古墳の建設をはじめ、数々の土木工事を行なってきました。かつて大阪平野に流れ込む淀川流域は、氾濫につぐ氾濫で荒れ果てていました。そこに堤防を築き、むずかしい治水工事をやってのけたのも、秦氏です。
そして、京都に平安京をつくるために技術の粋を結集し、労力を提供したのも秦氏でした。
かつて京都盆地は、あいつぐ川の氾濫で荒れ果てていました。秦氏は、高度な治水工事によって、鴨川や桂川の流れを大きく変え、そこを住みやすい土地としたのです。
またじつは平安京が置かれた地域自体、もとは秦氏の所有地でした。その地は秦氏と、その一族である賀茂氏、八坂氏、土師(はじ)氏、栗田氏、茨田(いばた)氏などの所有地だったのです。さらに旧皇居、すなわち京都御所が置かれたところも秦氏の所有する所でした。
平安遷都のために必要とされた巨額の資金も、秦氏(秦島麻呂)が出しました。つまり、平安京は秦氏がつくったといっても、決して言いすぎではないのです。
よく指摘されますが、「平安京」という名前は、イスラエルのエルサレムと同じ意味です。イェル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味であり、平安京ということなのです。平安京には、秦氏のエルサレムヘの憧憬(しょうけい)の想いが、込められていたに違いありません。
平安京がつくられた後、やがて「祇園祭(ぎおんまつり)」が始まりました。今も全国の各地で夏に持たれる祇園祭(夏祭)の中心は、京都の祇園祭にあります。
京都の祇園祭における最も盛大な行事、山鉾(やまほこ)巡行は、毎年7月17日に行なわれています。この日は、聖書の『創世記』を読むと、ノアの箱舟がアララト山に漂着したのと同じ日です(ユダヤ暦の第7月17日創世記8・4)。一方、旧約聖書によれば、古代イスラエルのソロモン王は、やはり伝染病が起こらないようにとの願いから、ちょうど同じ時期に盛大な祭を行ないました(Ⅱ歴代誌6・28、7・8~10)。
京都の祇園祭はまた、7月1日と10日にも重要な催しがあります。これらの日は、古代イスラエル人にとっても、重要な催しのある日でした(ラッパの祭および大贖罪(しょくざい)日。レビ記23・24~27)。このように平安京には、聖書に由来すると思われるような事柄が、数多くあることがわかります。
また京都の隣に、「琵琶湖」があります。イスラエルには琵琶湖と大きさも形もよく似たガリラヤ湖という湖がありますが、これは古代には「キネレテ湖」と言いました。キネレテは琵琶の意味です。どうも京都の付近には、イスラエルを思い起こさせる名前が多いように思います。
聖徳太子伝説と景教
P110-112
聖徳太子が実際にどういう人物であったかについては、謎が多いとされています。しかし聖徳太子の死後、数百年経って、平安時代に聖徳太子に対する人々の尊敬がふくらみ、彼に関する多くの伝説が生まれていきました。そして不思議なことに、その聖徳太子伝説の中に、聖書の物語が転用されたふしがあるのです。
たとえば、聖徳太子は馬小屋で生まれた「救世菩薩(ぐぜぼさつ)」、すなわち一種の救い主とされています。聖徳太子は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と呼ばれますが、「厩」とは馬小屋のことです。久米邦武博士は、これは、
“マリヤが馬小屋でイエスを産んだ”
とする基督教の話が、聖徳太子の伝説中に取り込まれたからだ、と推測しています。また、聖徳太子誕生にまつわる他の伝説も、聖書の話によく似ています。たとえば、聖徳太子の母、間人皇后の夢に救世観音が現われ、太子の誕生を予告したとなっていますが、同様に聖書においては、マリヤの前に大天使ガブリエルが現われ、イエスの誕生を予告しています。
『日本史の中の仏教と景教』の著者、富山昌徳は、
「醍醐本(だいごほん)『聖徳太子伝記』(13世紀)には、聖徳太子が死んでよみがえった話が出ているだけでなく、本書全体の構成が『ヨハネ伝』を模したものと推定される」
と書いています。一方、聖徳太子は「大工の祖」と仰がれ、「大工の守護神」とされています。同様に、イエスの職業は大工でした。広隆寺でも、一月に「チョンナ初め」の儀式というのが今もあって、聖徳太子は大工の祖であるとしています。
大工さんが使うL字型の道具を指矩(さしがね)を持っている聖徳太子の掛け軸があります。

信州安原山宝幢院 蔵
聖徳太子に対する古代基督教の影響
P206-208
京都大学の池田栄教授は、
「聖徳太子は、唐の太宗の場合のように、熱心な仏教徒であるとともに景教徒であったと考えられ、後世の光明皇后の場合もそうだったと思われる」
と書いています。ただし、ここで言う「景教」とは、原始基督教の流れを汲む広い意昧でのアッシリア東方基督教のことです。聖徳太子は大阪に、四天王寺をつくったとされています。それには「四箇院(しかいん)」と呼ばれる福祉施設が付随していました。それらは
「敬田院(きょうでんいん)」(宗教、学芸、音楽の殿堂)
「施薬院」(無料の薬局)
「療病院」(無料の病院、診療所)
「悲田院」(身よりのない人々の保護施設)
の四つです。それらに必要な経費は、すべて官費でまかなわれました。これら無料施設は、病人や、貧窮者、身よりのない人々などに、どれほど大きな希望を与えたことでしょうか。この聖徳太子の始めたことを、のちに受け継いだのが、先に述べた光明皇后だったのです。これらの福祉施設は、じつは当時、中国、韓国、インド、チベットなどいかなる国の仏教徒も行なっていないことでした。日本神道や、ヒンズー教、イスラム教、ゾロアスター教も行なっていませんでした。
ですから仏教の学者は、他のどこの仏教徒も行なっていなかったことを聖徳太子がなしたということで、聖徳太子を称えるのです。
しかしこうしたことは、じつはシルクロードの各地で、景教徒たちによって行なわれていました。彼らは無料福祉施設、無料医療施設を各地につくっていたのです。池田栄教授も、
「聖徳太子の事業は、京都・太秦にいた景教徒たちの慈善事業というモデルが存在していたからこそ、初めて可能なことだった」と書いています。池田栄教授は、600年頃、聖徳太子のそばには、マル・トマという名の景教徒がいたと書いています。
マル・トマはアラム語で「トマス先生」というような意味であり、あのキリストの使徒トマスと同じ名前ですが、聖徳太子の時代の日本に来ていた景教徒のリーダーだったと思われます。
池田栄教授は、日本で景教の教会を復興させようとしたほどの人物で、イラクにある景教本部とも連絡を取り合っていました。『聖徳太子のそばにマル・トマという名の景教徒がいた』と言う根拠は、そのイラクの景教本部発行の機関誌にそう書いてあった、ということのようです。
『景教徒マル・トマ』の『マル』は、アラム語で "先生" "閣下" のような意味です。
ちなみに、日蓮の幼名:善日麿の"麿"、柿本人麻呂の"麻呂"、牛若丸の"丸"などは、アラム語のマルが語源になっています。
アッシリア東方基督教徒たちは、シルクロードの各地で学校、病院、薬局、孤児院、その他、医療、学芸、福祉の無料施設をつくっていました。
聖徳太子はトマス先生から、シルクロードで行ってきた数々の慈善事業を聞いてとても感動し、日本でも同じことを行なうことを決めました。
『仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めた偉大な人物』というのが私達が聖徳太子について教えられてきたことです。
しかし、これまで考察してきたように、聖徳太子は仏教ではなく基督教の影響を強く受けていることがよくわかります。
ですから、聖徳太子が仏教を導入して日本を仏教立国にしようとしたというのは、後世の捏造としか考えられないくらい有り得ない説です。
哲学者の梅原猛氏は、日本にはザビエル以前から基督教の痕跡がたくさん残っている……日本が仏教の国だというのは、これはどうもおかしい……と気づきました。著書『隠された十字架-法隆寺論』のなかで、法隆寺を『聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説』を展開しています。
聖徳太子と基督教の関係につての言及は全くないのですが、本のタイトルに現れているように、『法隆寺には何か秘密めいた基督教の十字架が隠されている』と直観したのです。
聖徳太子一族はなぜ殺されたか
P215-216
聖徳太子といえば、仏教を日本に広めた大功労者であり、彼の宗教は仏教だった、彼は仏教を篤く信仰した聖人だった、というのが一般に思われていることでしょう。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。
聖徳太子自身の死についても、不審な点があるのです。
621年、聖徳太子の母が死亡。そのわずか2ヶ月後、最愛の后:膳菩岐岐美郎女(かしわのほききみいらつめ)が死亡。さらにその翌日、聖徳太子自身が、49歳の若さで死にました。この矢継ぎ早の死について、
「どうも状況から見て暗殺の線が濃い」
と言う人もいます。実際、当時は貴人の死にあたっては必ず、墓に葬る前に、いったん遺骸を仮設の小屋に安置して、しばらく鎮魂の儀式を行なうのが普通でした。「殯(もがり)」と呼ばれる儀式です。欽明天皇の死のときは殯を5ヶ月、推古天皇のときは、6ヶ月の殯の期間があったと『日本書紀』に記録されています。
国家に多大な貢献をした皇太子摂政、聖徳太子の死にあたっては、長期の殯があってしかるべきでしょう。ところが、それが行なわれなかったのです。
また江戸時代まで、大聖勝軍寺(たいしょうしょうぐんじ)(通称・太子堂 大阪府八尾市太子堂町)には、聖徳太子が毒殺される場面を描いた絵巻が残っていたといいます。このように、聖徳太子の子孫だけでなく、聖徳太子目身も殺された可能性が強いことがわかります。
ある人々は、聖徳太子は伝説で語られているような「仏教の大功労者」ではなかった、と考えています。いわゆる「日本仏教の教主」としての聖徳太子像は、仏教が日本の国教になった後世において作り上げられた虚像にすぎない、というのです。
殯(もがり)とは、
天皇や皇族の死後、埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。陵を築くまでの時間を稼ぐ目的もありました。
『日本書紀』によれば、太子は推古29年2月5日死亡、その月のうちに磯長陵に葬られたとあり、しかも、その墓は母の穴穂部間人皇女のもので、太子は母と合葬されたのであり、太子のために特に陵が築造されたわけではなかったのです。
異常に短い殯に共通していることは、暗殺、自殺、憤死などの異常な死を遂げていることです。
『古事記と日本書記(青春出版社)』にも、『太子の大活躍により国内は充実した。しかし推古30年、622年、国内外の政策で推古天皇を支えた聖徳太子は息を引き取る。……謎に包まれた死であることから、暗殺説も囁かれている』とあるように、聖徳太子暗殺説にも一理あります。
なぜ聖徳太子を殺してまで基督教を封印して仏教の大功労者にしなければならなかったのか……ここが日本史最大のミステリーであり、大変重要なところです。
秦氏と関係の深かった聖徳太子
P227-228
では、聖徳太子自身の宗教思想は、本当は何であったのでしょうか。それはおそらく、秦氏と同じ、あるいはそれに近いものであったでしょう。
すなわち“古代基督教的な神道”です。秦氏は、日本の神道と基督教信仰とを融合させた、独自な信仰形態を持っていました。それは秦氏創建の木島神社にある「三柱鳥居」や、大酒神社の「ウズマサ明神」などに見られる通りです。
聖徳太子は、冠位十二階、大嘗祭(だいじょうさい)、天皇の称号、日本の国号の制定などの功績を残しています。ここで注意すべきは、これらすべては国家の行政や、祭祀、神道に関する分野での業績だということです。
聖徳太子が仕えた推古天皇も、
「今、私の世においても、神祇(じんぎ)の祭祀を怠ることがあってはならない。群臣は心を尽くして、よく神祇を拝するように」(『日本書紀』)
と述べました。この「神祇」を元とする政治姿勢は、聖徳太子も同じであったはずです。彼の理想は決して“仏教立国”ではありませんでした。むしろ天皇を中心とする中央集権国家、つまり天皇を大祭司、あるいは「祭祀王」とする神道国家を目指していました。そしてなおかつ、民衆の人権を重んずる政治を目指していたのです。祭祀王を中心とする政治形態は、古代イスラエルをはじめ、その後のアッシリア東方基督教徒の間では普通のことでした。秦氏も、「上に立つ権威」(新約聖書 ローマ人への手紙13・1)を大切にした人々でした。
秦氏と同じように、聖徳太子の理念の中心は、そのような古代イスラエル、また古代基督教的な思想に基づいていたと思われます。彼のすべての行動は、秦氏的な神道——基督教的神道理念のもとになされたようです。
聖徳太子の宗教思想が何だったのかを考えるとき、自分の宗教思想と全く違う者を側近にするわけがないのですから、側近中の側近である秦氏と同じ思想だったということは容易に推察されます。
聖徳太子の理想は、仏教立国ではなく、『祭祀王(大祭司)としての天皇を中心とする中央集権国家=神道国家』を目指していたと考えられます。
現代の日本では実際に天皇陛下は祭祀王として様々な祭祀を執り行っておられます。
天皇陛下の関わる重要な祀り事というのはすべて神道です。仏教的でないことは一目瞭然です。
古代の天皇は、大和国の王家として出現し、祭祀王と同時に統治機構の頂点に立つ国王でした。これはイスラエルの統治形態と同じです。
政治権力と天皇の関係は時代によって変化しましたが、祭祀王としての天皇の地位は一貫して不変であり、現在もなお続いています。
国王が祭祀で、神々の声を聞いて、直接聞かなければ巫女が聞いて、そして政治を行うというこの信仰形態は、神を否定している仏教ではありえません。
現代の祭祀行為は天皇家の私事として行われていますが、天皇は国民とともに、あるいは国民を代表して神々をまつり、国家と国民の平安を祈る姿を理想としています。
日本は、天皇を中心とした神の国なのです。
【参考文献】
・隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
・日本建国の秘密