日本史

【新説 日本史_007】古代日本の基礎知識⑦~ダビデと阿波踊り

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日本史を本質的に理解するために

これまで、いろいろと考察を重ねてきた結果、日本の古来からの伝統・文化・芸術・技術等の起源が、ユダヤ教、旧約聖書、原始キリスト教に由来するということがわかりました。

今回からは、ラビ・マーヴィン・トケイヤー氏の著書『ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎』を参考資料としてさらに深く考察していきます。

ラビ・マーヴィン・トケイヤー氏は、ユダヤ教のラビとして1962年(昭和37年)に初訪日、1964年(昭和39年)まで日本で過ごしました。
1967年(昭和42年)に、フランス・ロスチャイルド家の基金により、東京広尾にある日本ユダヤ教団の初代ラビとして派遣され、1976年(昭和52年)までの10年間、東京で活動され、ヘブライ語を話す皇族の三笠宮崇仁親王と親交を結ばれました。

氏の著書は、ユダヤ教の専門家が見た日本の文化とユダヤ文化との類似性、神社の建築構造や穢れの観念等、数多くの証拠を列挙しながら、偏りのない学者的視点で考察しており、非常に優れた内容になっています。

日本史の本質を理解するために避けて通れないのが、天上の神々についてです
歴史の出来事を表面的に理解するだけなら、史実を辿りさえすれば事足ります。
しかし、その歴史的真実が、捻じ曲げられあるいは捏造され、あるいは秘匿されてきた秘密を解き明かすためには智慧と理性が必要です。

”神”と一口に言っても、日本の八百万の神、一神教の神、土着宗教の神……と様々な概念があります。歴史と宗教は切り離すことは出来ずさらに信仰の対象である”神”について理解していなければ、歴史を紐解くことはできません。

日本人はどのような神を崇拝してきたのか

イエス・キリストの使徒パウロがギリシャで伝道するようになったとき、そこでパウロはおびただしい偶像と種種雑多な神々を崇め祀る礼拝所を見ました。

人々の目には、パウロは怪しげな者と映り
「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」
「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」
と噂していました。(使徒17:18

人々はパウロを捕らえアレオパゴスの評議所に連れて行き
「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」
と言いました。(使徒17:19~20

パウロは、神が最も嫌う偶像崇拝を行う人々に激しい憤りを覚えながらも、湧き上がる感情と裁きの思いをグッと抑えながら人々に熱く語りかけました。

あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう!」(使徒17:23

と。そしてパウロは、聖書に記されている天地創造の神こそ、あなた方ギリシャ人が昔から知らずに拝んできた神なのだ、と語りました。

日本人もまた同様に、昔から知らずに拝んできたものについて、聖書から学ぶことができるのです。

日本に古来からある宗教が神道です。神道は、仏教が伝来する遥か昔から存在する日本人独自の民族的宗教です。神道の起源を辿っていくならば、それはやがて古代イスラエル人が連綿と受け継ぎ守ってきた宗教に行き着くのです。

神道と偶像崇拝

古代イスラエル宗教が偶像を造らないように、神道にも偶像がありません。

神道の特徴として、磐座(いわくら)という、巨石や岩、石の柱を御神体とする信仰があります。この磐座信仰は偶像とは異なり、神の霊が岩や石に降臨する神聖な存在として認識しているのです。これを依代(よりしろ)といいます。(他にも巨木・高木など)

人々はそれ自体を崇拝しているのではなく、そこに降臨し臨在する、無形の神を崇拝しているのです。

旧約聖書には、イラエル民族のご先祖様:ヤコブ(Jacob)が、神を祭るため石の柱を立てたという記述があります。「そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、一本の石の柱を立て、その上に*灌祭(かんさい)をささげ、また油を注いだ。」(創世記35:14
※灌祭(drink offering):神への感謝、祈願、贖罪の目的でぶどう酒または水を祭壇に捧げること。 

イスラエルの祭司と日本神道の神官の服

[ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎]

P12-14

初めての日曜日に明治神宮を訪れた。
神官は独特の帽子をかぶり、その衣の袖の端には「房」がついていた。
そこに生後一ケ月の赤ちゃんが連れられてきていたが、赤ちゃんは母親ではなく別の人に抱かれていた。神官は、その赤ん坊を清めるために、榊の枝でお祓いをし、枝を左右上下に揺り動かしていた。こうした光景を見たとき、「いったい私は自分の故郷に来たのだろうか」と思ったのである。なぜなら、私が見たそれらの光景はみな、古代ユダヤの風習にほかならなかったからである。

ユダヤには日本神道と同様に「産後の汚(けが)れ」という観念があり、赤ちゃんの初宮詣(はつみやもうで)のとき、母親以外の者が赤ちゃんを抱いた。ただし、現代のユダヤ人はこの風習を持っていない。

私は「かわいいお子さんですね」と言いながら、なぜ母親が抱かないのかと、その人々に尋ねてみた。答えを聞いて、私と家内は目を見合わせてしまった。
「母親はまだ産後の汚れの中にあるので、抱かないのですよ」
との答えだったからである。聖書時代の古いイスラエルの風習が、なんと日本で生きていたとは!

また日本神道の神官が榊の枝でお祓いをする仕草は、ユダヤの風習にじつによく似ている。
私はさらに神社の神官に、彼の身につけている衣の房について尋ねてみた。
「なぜ袖に房をつけているのですか」すると神官は、「これは昔からの伝統によるのです」と答えてくれた。しかし、これはもともと非常に古いイスラエルの風習なのである。聖書には、
「身にまとう着物……に、房を作らなければならない」(申命記22・12
と記されている。衣につける房は、イスラエル人であることのトレードマークであった。

神道の神官の衣に房

日本神道の神官が榊の枝や御幣でお祓いをする仕草は、収穫の束を左右上下に揺り動かすユダヤの風習と似ています。これは現在もユダヤ人が続けている風習です。房をつける、というのはユダヤ人とそうでない民族を分けるための目印だったということです。

古代イスラエル人は日本に来たか

P18-19

私が日本に住んでいたとき、イスラエルの主席ラビ(シュロモ・ゴレン)が日本にやって来たことがある。彼は、日本という国に大変興味を持ち、滞在を非常に楽しんでいた。そして日本神道の真髄を学びたいと言って、しばしば国学院大学の講義に出席していた。

ラビはそこで、日本の神宮を警備する人たちに関して質問をした。警備員たちは神宮のどこに立ち、またどのような順番で、どちらに向かって廻るのか、さらにどのようにして警備員の交代をするのか、などを先生に質問したのである。

ラビはその答えを聞いて、驚愕した。
なんとその警備の仕方や、交代の仕方は、かつて古代イスラエル神殿でなされていたものと、全く一緒だったからである。

イスラエルの神殿は西暦70年に破壊されて以来、いまだ再建されていない。しかし、それまでなされていたと同じ警備の仕方が、なんと日本の神宮で今もなされていたとは! 「信じられない」とラビが言ったのも無理はない。
「あの古代イスラエルの失われた十部族が、かつてこの日本にやってきたのだろうか」

P27
ヨセフスの記述
イスラエルの失われた十部族はかつてアッシリヤ帝国に連れ去られたわけだが、それは具体的にはどのあたりだろうか。聖書にはこう記されている。
「アッシリヤの王は、イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れていった」(Ⅱ列王記18・11
これは現在のイラク北部にあたる。

今から約2000年前に生きたユダヤ人で、ヨセフス・フラヴィウスという信頼できる歴史家がいた。彼の著書の中に、十部族の行方に関する非常に古い記述が見られる。

「イスラエルの十部族は、今でもユーフラテスのかなたにおり、数え切れないほど膨大な民衆となっている」(ユダヤ古代史11・2
ある者たちはユーフラテス川のすぐ東側の地域に、またある者たちは、そこからさらに遠い東の地にすでに移り住んでいた、ということも考えられる。

南米でメノラ発見

P40-42

南米のインディアンとイスラエル十部族については、1974年にイスラエルで発行された新聞に、次のような興味深い記事が載っている。

1587年、イエズス会の宣教師ニコラス・デルツは、スペインから南米に、宣教のために派遣された。デルツはアルゼンチンの周辺地域で、イスラエル人の名前を持つ種族に出会った。たとえば、アブラハム、ダビデ、モーセといった名前を彼らは持っていた。デルツは彼らに割礼のことを聞くと、「ええ、私たちはみな割礼をしています。先祖の時代からそうしています」と答えた。

また同じ場所で、メノラ(イスラエル神殿にあった七枝の燭台)の形が刻まれた円形の石板が発見された。その周囲には、アラム語で「過越(すぎこし)」(パスカ)と記されていた。アラム語は古代イスラエル人が使った古代語だから、それが書かれていること自体、非常に古いものであることを意味する。

そこから数メートルの所に、舟の絵(イスラエル十部族の1つゼブルン族の紋章は舟である)が刻まれた石板も見つかった。その舟には「チッポラ」という言葉(モーセの妻の名と同じで、イスラエル人の名。船につけられた名か)が記されていた。
これは、彼らが南米に船でやって来たことを意味するのだろうか。学者は、これは約3000年前のものであると考えている。

カシミールに来たイスラエル十部族

P68-69

パタン人の住むアフガニスタンやパキスタンを離れ、さらに東に行くと、そこにカシミール地方がある。彼らにも古くから、自分たちがイスラエル十部族の子孫であるという言い伝えがある。

カシミールには、しばしば古代イスラエルにあったものと同じ地名がつけられている。たとえばネボ山、ベト・ペオル、ピスガ、ヘシュボンなどである。これらはみな、イスラエル十部族がかつて住んでいた地——イスラエル北部にあった地名である。

同様のことは人名についても、男性名や女性名、また村の名前等にも見られる。
カシミールの人々は、「バスカ」と呼ばれる祭を春に行なう。これはユダヤの「過越の祭」(ヘブル語でペサハまたはペサカ)である。またそのとき彼らは、月の暦と太陽暦の日数の差の調整を行なうが、その調整の仕方がユダヤ人の方法と全く同じである。これについては、幾つかの本が出版されている。

カシミール人の歴史には、多くの謎がある。しかし研究者たちの意見は、カシミールの人々の多くは紀元前722年のアッシリヤ捕囚で連れ去られたイスラエル十部族の末裔である、ということで大体一致している。

P70-71
カシミールにはイスラエル的な名前が多い
カシミールにはアシェリヤ族というのがあるが、これはイスラエル十部族の一つ、アシェル族のことである。ダンド族はダン族、ガダ族はガド族、ラビ族はレビ族である。またシャウル族というのもあり、シャウルはヘブル語でイスラエル初代の王サウルのことだ。

サマリヤという地名もある。ほかにマムレ、またピシュガは古代イスラエルのピスガ、ナブダアルはネボ山、ブシャンはバシャン、ギルギトはギルガル、ヘシュバはヘシュボン、アムナーはアンモン、ゴシャンはゴシェン、メディアン・プラはミデアン等で、いずれも聖書ゆかりの地名である。

カシミールの人々は、ユダヤ人と同じく安息日に入るとロウソクを灯す。また頬髭や顎髭を生やし、ダビデの星のマークをつける。

パキスタンとの国境付近にあるユスマルグ(ハンドワラ)という地域では、自分たちのことを今も「ブネイ・イスラエル」(イスラエルの子孫の意)と呼んでいる人々がいる。しかし、これはなにも彼らに限ったことではなく、昔はカシミールの人々はみなそう呼ばれたのだと、カシミールの人々は述べている。

契約の箱と御神輿はよく似ている

P136-138

契約の箱とは、日本の神社の御神輿(おみこし)に似た移動式の神殿である。
ダビデとイスラエルの長老たち、千人隊の長たちは行って、喜びをもって主の契約の箱を…運び上ろうとした。……ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた。箱をかつぐすべてのレビ人(びと)……歌うたいたちも同様であった。ダビデは亜麻布のエポデを着けていた。全イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。……サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見た」(Ⅰ歴代誌15:25-29

契約の箱」は、長さ113センチ、幅と深さはそれぞれ68センチほどの長方形の箱であった。契約の箱は、二本の棒でかつぐようになっていた。契約の箱のかつぎ棒は、現在の再現模型などを見ると、しばしば箱の上部につけられていたり、中ほどにつけられているものもある。しかし、かつぎ棒は実際は箱の下部につけられていた。

聖書によれば、かつぎ棒を通す環は「箱の基部に取りつけ」られていたと、書かれているからである。(出エジプト記25:12)ちょうど、日本の神社の御神輿のような形である。イスラエル人のレビ族の祭司がこれを担ぎ、エルサレムの街中を、神楽の音の鳴り響く中、練り歩いた。

日本の御神輿には、その上部に「鳳凰(ほうおう)」と呼ばれる金の鳥の像がついていて、その翼を広げている。鳳凰は想像上の鳥で、天的な存在である。同様にイスラエルの契約の箱の上部にも、ケルビム(天使の一種)と呼ばれる天的な存在が翼を広げていた。

イスラエルの契約の箱は、全体が金でおおわれていた。アカシア材で作られていたが、内外ともに純金でおおわれていた。上部の周囲には金の飾り縁もついていた。日本の御神輿も、要所要所が金でおおわれている。栃木県・日光の二荒山神社(ふたらさん)の御神輿などは、全体が金でおおわれている。

契約の箱と御神輿は、大きさも大休同じであり、目的も同様であった。それは両方とも、移動式の神殿の役目を果たしていた。

イスラエルの王ダビデは、王になって最初の戦でペリシテ人を打ち破り、主の契約の箱を携えてエルサレムに凱旋したとき、民と共にその前で歌い舞い踊りました。

こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、立琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。』(歴代誌上15:28

日本でいえば、コンコンチキチキ♪ピーヒャラ、ピーヒャラと神輿を担ぎながら練り歩いている様子が目に浮かびます。

ところが、その様子を窓から見ていた妻のミカルは、ダビデ王が飛び跳ねまわり喜び踊っているのを見て、心の中で彼を蔑んだとあります。

主の契約の箱がダビデの町にはいったとき、サウルの娘ミカルが窓からながめ、ダビデ王の舞い踊るのを見て、心のうちに彼をいやしめた』(歴代誌上15:29

そして、家に帰って来たダビデに妻のミカルは嫌味ったらしい言葉で罵りました。

イスラエルの王は今日、何と威厳があったのでしょう。まるで愚か者が裸をさらすように、召し使いの女奴隷たちの前で裸になったのですから。』(サムエル記下6:20

先王サウルの娘ミカルはよっぽど気位が高かったのでしょう、裸踊りをする夫の姿をみて恥ずかしい!下品!と思ったというのです。しかしダビデは妻の罵倒に動じることなく、神の前によりいっそう謙遜になってこう答えました。

わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。』(サムエル記下6:21-22

では、そんな下品で恥ずかしい踊りとは、一体どんなものだったのでしょう。

リチャード・ギア主演映画:King David(キング・ダビデ~愛と闘いの伝説)に、喜び踊るシーンが再現されています。

【新説・日本史】一覧


【参考文献】
聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎(ラビ・マーヴィン・トケイヤー)
・日本建国の秘密

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