サトリ
えーとですね、今日は、難しくないんだけど、悟りの話ってのをします。
悟りっていうとエラく難しいように思うんですけど、これがね意外と簡単で、修行も要らなきゃ何も要らない。
お釈迦様もね、難行苦行ってのをして……
お釈迦様って、日本のお釈迦さまって、みんなぽちゃっと太ってるでしょ?
ところが、インドのほうとかね、向こう外国のやつはね、こう修行中のブッダなんて、こーんな痩せてね、もうあばら骨出ちゃってね、あたしみたいですね(笑)
それがですね、難行苦行の時に、最終的にね「無駄である」と。
「過激な修行は無駄である」ということを言ったんですよね。
で、何故無駄かっていうのを、チョッと話すと分かるんですけど、これからその話に入ります。
話し、チョッと余談になるんですけど、あんまり難行苦行したときに、やせ衰えて動けなくなった。
その時ね、村の娘が牛乳で炊いたおかゆを出してくれて、それを食べて、その村娘だスジャータって名前で、今のスジャータとかっていう食品は、その名前で付いてんだけど。
修行中の人って、昔は女に近づいちゃいけなかった。
だから女性からなんか貰って食べたなんてったら、もう全然許されなかったのね。
でもお釈迦様はそれ貰っててね、食べたんですけど、ま女が好きだったのかもわかりませんけどね(笑)
なんか親しめますよね。親近感があります。
え~、悟りの話、行きます。
簡単にいうと、悟りっていうのは字で書くとこうです。
コレ心です、こころ。心を表してるんです。
心に五ですね。五っていうのは手です。
それが、自分の口に向いてます。
悟りというのは、あなた要するに私ね?自分のことが、わかったら悟りなんだよ、っていうことなんですよね。
自分って何だろう?ってことを追求して追求して追求していくと、悟りに近づいていく。
これは字で書いてその通りなんですけど、もう一つ、言霊(ことたま)と言って、言葉には意味があるんです。
神がつけた意味がある。
『さとる』というのはどういうことですか?っていうと、『差とり』なんです。差をとるんです。
で、『差をとる』っていうことは、どういうことですか?っていうと、
人間ってね、いろんなことに差をつけるんです。
女だからどうだ、男だからどうだ、それから学歴がある人、学歴のない人、日本人も昔は日本人は優秀で、他の国の人間はそうじゃないんだとか言って、差をつけたがるんです。差をつければ、つけるほど『悟り』からは、遠のいていくんです。
だから、今は、だんだんね、今の日本人であんまりね、外国人より自分たちの方が優秀であるとか、思っている人っていませんよね?。
それから今の若い人で、男尊女卑とか、あんまり思っている人もいないんですよ。
思うのは勝ってですけど、そういうのがだんだんだんだん、そういうのも無くなって来ましたよね?
だから、だんだん悟りに近づいてくる。
っていうことなんです。
最終的にね、いちばん差が取れるっていうのはどういうことですか?っていうと、『自分と神様は同じものなんである』っていう。
この話ちょっと難しくって、なんかすごい話になっちゃうんだけど。
キリストが言ったように、『あなた達は神の子なんだ』っていうことは、神の子だっていうことは神なんですよ。
蛙の子は蛙ですからね、蛇の子は蛇なんですよ、簡単な話なんですよ。
だから神様の子は神なんだ、っていうことね。
神様の子は神なんだから、立派な神様に育っていくんだと。
その、育つ過程に今、我々はあるんだと。
人間って背骨があるからね、しっかり立ってられるんです。
他の動物ってあんまり、直立で歩けないんですよ。
人間だけは直立して歩けるんだけど、この、背骨がね曲がるんですよ。
具合が悪くなると背骨が曲がってくるんですね。
何番目の背骨が曲がると、胃が悪いとか、肝臓が悪くなると何番目だとか、決まりがあるんですよ。
カイロプラクティック・オステオパシーとかっていう、技法は、骨をね、調整する。俗に云うカイロってやつだね。
それをややるとね、非常に身体の具合ががよくなるんです。
酷くなってくっと、脊髄湾曲症なんて、こう曲がってきちゃったりね、いろいろあるんですけどね。
で、これがですね、奇跡的に直る方法があるんです。
誰がやっても直るんです。
それは、「我は神なり愛と光なり」って言うんです。
10回か20回言うんです。
「我は神なり愛と光なり我は神なり愛と光なり」って言うとこう、身体からサーッと力が抜けるんです。
力が抜けると、筋肉の硬直がとれると骨がまっすぐに、こうなるんです。
誰がやってもなるんです。
不思議でしょ?
「自分は神なんだ」っていうことを言うとね、身体がね、こう柔らかくなるんですよ。
ところが、自分ひとりで頑張んなきゃいけないだとか、要するに、自分にあんまりにも頼りすぎちゃって、自分が自分が、っていうのは『我』なんですよ。
我が我がの我が強くなってくると、脊髄に、まわりが出るんですよ。
※参考動画~我の話ー争いのもとは「我」にあり
だから、時々ね、「我は神なり愛と光なり」って何回か言うとね、おまじないじゃないんですけど、背骨がまっすぐになるおまじないだと思ってればいいんです。
そうやって、その事をねずーっと言うんですよね?
そうすると、そういう不思議な現象が起きるんです。
だから、誰かこう背骨の曲がった人がいたら、ちょっと言わしてみると、楽になるんです。
だから何なんだ?とかって言われると、これも困っちゃうんだけど。
そういう不思議なことがあるんです。誰がやっても出来るんです。
心地よい言葉は身体を正常にするんです、癒すんです。
癒す言葉ってあるんです。
それをね、一番身体が硬くなる、何でも頑張らなきゃ、自分の力でとか、人に頼らずに、とか。
言うとね、言えば言うほどね、身体が硬直して硬くなってくるんです。
ホントなんですよ。
治ったでしょ?(女性の人に向けて)
今まで、いくらやっても治んなかった、鍼をやっても氣をやっても……
でも、それの時って頑張らなきゃっていう気持ちが強かったの。
そんなことより、フーッと力を抜いてあげて「我は神なり愛と光なり」って言ってると、自分がもしも神だとしたら、愛と光の人間だったら、どういう生き方するんだろう?人に何を喋るんだろう?なんて考えてるうちにね、治っちゃうんです。
こんなお安い方法ないでしょ。
覚えといてくれるといいな。
それから、我が神なら、人も神なんです。
みんな大切な人間なんです。
それを些細なことで、「あの人高校中退なのよ」とか、それが何なんだっていうの。
誰でも、高校行けば偉いんじゃないの、誰でも大学行きゃあ偉いんじゃないの、みんないろいろ、事情があるの。
道路工事してる人もいるし、家つくってる人もいるの、ペンキ塗ってる人もいるの、いろんな人がいて成り立ってるのね?
それを、学校行ったらいけないって言ってるんじないんだよ?行きたい人は行ったらいいの、ホントは行きたくない人も行ってるのね。
だからね、いろんなことで差をつける、その差をつけてる人ほど、苦しいよ。
人にいちいち、差をつければつけるほど、自分がどんなに下の人間を見て差をつけたって、その人間はその差のことばっかし考えてるから、たいがい人間は下見て生きてないのよ。
自分より、上見て生きてるから、もっと学歴の高い奴、もっといい学校行った奴、もっと金持ってる奴、もっと家柄の良い奴、そんなことばっかし考えてっから、上がだんだんだんだん、重くなってくるんですよ。
重くなればなるほど、背骨に負担がかかってきちゃうの。
だから、差をとるの。差をとればいいの。
この差をとれば、すっごく幸せになれるの。
その中で、自分が真にやりたいことってなんだろう?って。
それを追求してったら、ホントに楽しいことがいっぱい起きるよ、っていう。
ことなんです。
だからこんなもん、何日間もね、座禅組むとか、飯食わないでがんばるような、そんなもんじゃないんです。
それよりも、人に優しく出来る気持ちがあれば、それで十分なんです。
と、いうことで悟りの話、短くてすいません。
終わりま~す。
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※お弟子さんの声
(兄弟の比較しちゃうとか、結構ねぇ身内のことで苦労してる人、多いんですよ)
あのね、えーっと、これはね続きの話……
じゃ、続けてこの話し、しちゃいますね?
兄弟で差をつけちゃう、お兄ちゃんだから。
同じ喧嘩してても、「ホラおにいちゃんなのに」とかって、これって『差』ですよね?
で、こういう『差』ってぇのね、つけちゃいけないんです。
で、兄弟の問題もあり、親子の問題もあり、親戚の問題もあるだけど、色んな形で差を取ってて、もっと大きなね、愛ってね、昔は家族愛だったんです。アメリカ行くとマフィアってのがあって、それはね仲間内のね結束が凄い強いんですよ。
そのかわし、仲間以外殺しちゃってもいいと思ってる人っているんですよ。
で、それが、だんだんだんだんこのぉ、もっとね、家族愛から大きくなって来てこう、自分の所の……
日本だと昔は、豊臣家とかナントカ家、ひとつのこの集団、一国の国みたくなると、そこの中は異常に仲いいんだけど、隣の国と敵対するんですよ。
で、今は、あの~昔はあの『国粋主義』って、『愛国主義』ってのがあったんですよね?
で、愛国っていうのは、国を愛するんだけど別に隣の国の人間愛してるわけじゃないから、結構、ムチャクチャなことをするんですよ。
それと同じように、その差が、だんだんだんだん無くなって来て今は、『人類愛』みたくなってきてるんですよ。
で、今『人類愛』は、もうじき終わるんです。
なぜかっていうと、人類を愛してたって……
あんまり木やなんか切っちゃうとね、おかしくなっちゃうんですよ。
そうすると、ひとつ『宇宙愛』とか『自然愛』みたくしないと、人間だけがいいなら、生きてける時代じゃなくなっちゃったんですよ。
だから、ここんとこすごいテンポが速いんだけど、『人類愛』から『自然愛』『宇宙愛』のようなものに、もうひとつランクが上がる時代なんです。
じゃないと、いくら便利だからつって、工場からボンボンボンボン、排気ガスやなんか出すと、地球の温度が上がってっちゃうんです。
で、ここんとこ、北の海で温度が1度ぐらいあがっちゃったら、プランクトンが出来ないんですよ。
で、鱈やなんかの子供が餓死しちゃうんですよ。
たった1度違ちゃっただけでね、私たちなんかホント素人だから、考えるとあったかくなったらプランクトンなんかドンドン出来て……とかって思いますよね?
ところが、寒いところにいるところはアレがよくているから、あったまっちゃっちゃあ、ダメなんですよ。
だから、我々、もう今は『人類愛』だけでは、いけない……ホントの時のことも考えなきゃいけないんです。
ホントなんですよ?プランクトンのことも考えなきゃ……
結局、みんなで助け合って生きてたんだ、っていう。
『宇宙愛』みたいなとこへ行く、だからそれも一つの『差』なんですよね。
だから、ひとつの『国家愛』よりは『人類愛』の方がいいんですよ。
でも、『人類愛』ってやってたら、人類だけ愛しててもダメなんだ、って。
いろんなものを、トータル的に愛していく時代を創らなきゃいけないよ、って。
で、だんだんだんだん、差が取れてるんです。
だから、ここんとこアレでしょ?排気ガス、うんと出さないようにしようとかね、工場でも出さないようにしようとか、木あんまり切っちゃダメだよとか、言うようになってきたでしょ?
で、これはすごく差が取れてきてるな、っていう事です。
なんか兄弟の話から、人類愛の話までいっちゃっておかしいんだけど、
細かいところで、心の中でどっかに差をつけてないだろうか?
で、その差を取っていく……これが自分たちの悟り(差とり)の修行なんだ。
だから、弟のほうがお兄ちゃん見て、俺はお兄ちゃんにはアイツには勝てないんだとか、アイツには負けないとかってのは、差があるんだよね。
人間ってのは個性の問題なんですよ。
最近、ジャニーズ系の踊り、『嵐』だとか踊ってるんですよね?
あすこへもし、私が入ったとしますよ。すと、私すごい人気が出ると思うんですよ。
ホラ、普通の人より踊りもゆっくりだから(笑)覚えやすいとかね?
見てて安心感があると、いいとこ幾らでもあると思うんですよ。
あのぐらいの足なら私も上がるって、出来そうな気がするとか、そいう、いいとこ多分にあるんですよ。
ただ、それをもっと速く動きたいとか、そしたら私がこの歳になって、あの子たちと同じ速さで動くことは出来ないんですよ。
差がついてんですよ。
で、差をつけちゃいけないんです。
で、アレが必ずしもいいと思っちゃいけないんです。
速すぎてダメなんです。覚えづらいんです(笑)
ダメ、あんなせせっこましてちゃ(笑)
やっぱ一人だけ私みたいのが入ってると、安心感あって、癒し系ですよねぇ今、流行のねぇ(笑)
という、こういう捉え方が出来ないと、ダメなんです。
アレもいいけど、我も良し。我もいいけれど、向こうもいいんですよ。
向こうのファンも残りますよ、全員私のとこへ来るとは思ってません(笑)
※お弟子さんの声
(仕事もおんなじだと思うんですよ。よく、私はこういう状況だからとか、それから駅から離れてるからとか、条件が悪いからって勝手に差を自分でつけて、ダメにしちゃうこともあって……)
そうです、いくら離れてても周りに人がいないわけじゃないですからね?
別に駅が買いに来るわけじゃないですから(笑)
それは、個人個人の想い方なんです。
私も、中学校しか出てないんです。ただ、中学校しか出てないからどうこうは思わないんです。
早くね、高校で3年、大学で4年、7年速く社会に出てんです。
7年、マラソンでも7年早く走ったら相当先へいっちゃいますからね。
で、私は一番当然ですよ、と。
各自、自分のいいところを、強気にね、思って行く。
それで、じゃ大学行ってる人いけないんですか?って。
私みたいのが大学行くと、「大学までいったんだから」っていろんなこと言いますからね(笑)
ものは、いろいろ差をつけるよりも、大学へ行ったら行った時の良さがある。
行かなければ行かないだけの、社会へ早く出た良さがあるんです。
それは、お互いがいいんであって、我もいいけど人もいいんだし、ね?私はいいけど相手が劣ってるとか、私は劣ってるけど相手は進んでるとかって、いちいち差をつけることは苦しくなりますよ?
それは止しましょう。
今日、テレビ見てたらね一つの会社の社長さんが出てきてね、電気消せだとか、細かいことすごくケチなこというのね。
で、ウチの会社ってあんまり言わないんですよ。
今、クーラー消してんのは音が入っちゃうから、暑いときはクーラー入れるんですよ。
で、その人は自分がケチなんだ、って言ってるんだけど、無駄が嫌なんです。
それ聞いてたときに、ウチの会社ってそういうことはしないんですよ、そのかわり大きい無駄で……
ウチの会社ってビルもなければ、社長秘書もいないんですよ。
ホントに要るのかなっていう、細かいね、細かいことばっかしアレはダメだコレはダメだって言ってるけど、ホントにおっきいもので要らないものっていっぱいあるんです。
要らないものが結構多いんだよね、だから細かいものを……お茶は色が出てるうちは味が無くても使えとか(笑)いろんな、そんなくだらねぇこと言ってるよりもね……
って、まあそれはいいだけど、それはそれで個性だからね。
で、それが正しいわけじゃないんです。
いろんなものがあるっていう、それを言いたいだけなの。
で、我と人を判断したときに、違いはすごくあるんです。
で、その違いを見たとき、ああやってスピード出してね、ああやって踊れたりローラースケート乗れるものいいよな、って。
だけど、我には我の良さがあるんだって、そうやって思って生きないとね。
いちいち誰かを比較してね、あの子はすごく覚えが良くて勉強が出来て、とかっていうのもあるの。
それはそれで素晴らしいの。
でも、出来ない人は出来ない素晴らしさがあるんです。
っていう、それをただ言いたかったんです。
自分のところが、どのぐらい世間とか、差をつけてるか。
人を扱き下ろすのもいけないこと、差をつけるのも悪いこと、自分で勝手に降りて、あの人には適わないとかあの人はどうだとかって、勝手に差をつけちゃダメなんです。
そういうことすると、苦しくなってね、一生一回しかないですから、この一生はこれで終わりですからね。
※悟りの話/我は神なり愛と光なり