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封印のイエス―「ヒラムの鍵」が解くキリストのミステリー:クリストファー・ナイト/ロバート・ロマス(著)

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古代エジプトの記録、聖書、死海文書、グノーシス福音書、フリーメーソンの儀式の比較・分析の結果、解明された究極の結論―エルサレム神殿の地下に封印されたイエスの秘儀は、聖堂騎士団(テンプル騎士団)、フリーメーソンへと受け継がれ、スコットランドに眠っていた!すべてを解きあかした「ヒラムの鍵」とは!?キリスト教社会を根底から揺るがす衝撃のノンフィクション。
封印のイエス―「ヒラムの鍵」が解くキリストのミステリー(1998/9/19)

目次

第1章 フリーメーソンリーの失われた秘密
第2章 探究の始まり
第3章 聖堂騎士団
第4章 グノーシス・コネクション
第5章 イエス・キリスト―人か、神か、フリーメーソンか?
第6章 初めに人、神を創り給えり
第7章 エジプト人の遺産
第8章 最初のフリーメーソン
第9章 ユダヤ教の誕生
第10章 一千年の苦闘
第11章 ボアズとヤキンのペシェル
第12章 水をワインに変えた男
第13章 復活
第14章 真実の逃亡
第15章 失われた巻物の発見
補 遺 近代フリーメーソンリーの発展と世界への影響


「フリーメイソン協会」は秘密結社で、協会の入門や内部の昇進には意味不明な秘儀が行われる。
本書の第1章では、秘儀の内容が紹介されている。会員にも、秘儀の由来や意味が伝わっていない。秘儀には、協会以外では全く登場しない「ヒラム・アビフ」なる人物が重要な役割を演じる。秘儀では、「ヒラム・アビフ」はソロモン王の神殿建設の第一の匠で、完成直前に同僚の3人の匠に殺害されたことになっている。(p.29)
「フリーメイソン」(英語では、Freemason)は、16 世紀後半から 17 世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社で、現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は 600 万人とも言われている。「フリーメイソン」は厳密には各個人会員の事を指しており、「フリーメイソンリー」(英語では、Freemasonry)が団体名として用いられている。本書の翻訳では、「フリーメイソンリー」がそのまま使われている。しかし、日本語として分かり難いので、では「フリーメイソン協会」する。
「フリーメイソン協会」の起源は、中世の石工組合であるとの説が有力である。
しかし、本書では、1118 年に設立された「聖堂騎士団」(テンプル騎士団、とも呼ばれる)が起源であるとの説を採用している。聖堂騎士団は、1307年にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312 年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。本書では、フィリップ4世の弾圧を逃れた聖堂騎士団の残党が、スコットランドと北米に逃亡し、そこで秘密結社である「フリーメイソン協会」を作ったと述べている。
「フリーメイソン協会」では、「ヒラム・アビフの殺害により真の秘儀が失われた」と考えている。
著者は、「ヒラム・アビフの秘密を解明することにより、エジプトのファラオやキリストの古文書に新事実を発見した」と主張する。
1118年に、「キリストとソロモン神殿の貧困同胞戦士団」すなわち「聖堂騎士団」が、エルサレムに巡礼するキリスト教徒を保護するために設立された。しかし、本書は「この騎士団の真の目的は、モーセ時代に遡る、ユダヤ教および古代エジプトの秘儀の伝承のエッセンスが含まれた遺物と写本を発見することであった」と述べている。(p.52-p.54)
20 世紀には、キリスト教に関する失われた写本の発見が相次いだ。なかでも有名なのは次のふたつの文書である。
1945 年に、エルサレム東方の砂漠にあるクムラン洞窟で、「死海文書」が発見された。
1947 年には、上エジプトのナグ・ハマディ近郊で発見された「ナグ・ハマディ文書」は、「グノーシスの福音書」であった。
おそらく、12 世紀に聖堂騎士団がエルサレムの神殿跡で発掘したのは、これらの文書と類似していると思われるが、彼等はこれらの文書を世間の目に触れることなく隠匿したのであろう(p.64)
今日、「グノーシス」といえば、遠い過去のある時期、一時的に正統キリスト教に影響を与えはしたが、結局は非合法とされた異端を指す。だが、これは極めて不正確なレッテルである。キリスト教グノーシス文書と呼ばれるものは、伝統的なユダヤの観念を中心に、インドからペルシャに及ぶ広範な思想的影響を受けていた。(p.64-p.65)
グノーシスという言葉は、ギリシャ語で知識もしくは理解を意味する。しかしそれは科学的な意味ではなく、より霊的で仏教の瞑想による悟りによる知識という意味合いである。グノーシス主義者にとっては、真の自己を知り、自然と自然科学を評価することが神への道であった。ほとんどのキリスト教グノーシスは、イエス・キリストを神ではなく、シャカやムハンマドらと同じ意味で悟りを得た人物と見なしていた。(p.65)
「グノーシスの福音書」は、「新約聖書の福音書」と同じくらい古いが、それが一般に知られたのは 1947年12 月に、上エジプトのナグ・ハマディ近郊でコプト語の写本が発見されて以後である。これらの文書は 350-400 年ころのものであったが、その多くがそれより 300 年ほど前の作品の写しであった。(p.65)
イエスの復活の背景にある事実について、これらふたつの初期キリスト教の伝承には、大きな違いがあった。ナグ・ハマディ文書にある「復活論」では、「通常の人間は霊的には死の状態にあり、霊的な啓明を得た瞬間に復活が起こり、真の意味で生きている状態になる」という。ナグ・ハマディ文書にある「ピリポ福音書」では、このような「生きながらの復活」の概念を、文字通りに「死者の蘇生」と受けとっている無知な正統キリスト教会を嘲笑している。(p.66)
何百年の間、多くの処女が神の子を生んできた。(p.74-p.75)
「イエス・キリスト」とはのちに与えられたギリシャ語の称号に過ぎない。
「ヨシュア」は旧約聖書のエリコの戦いでユダヤ人に勝利をもたらした英雄の名前である。
イエスとは、ヘブライ語「イェホシュア」のギリシャ語訳である。
「キリスト」はヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳で、救世主という意味である。だが、実際のヘブライ語の「メシア」は「正統なユダヤの王となる人」という意味でしかない。
ユダヤ人にとっては、将来の王は皆「メシア」なのだ。それは極めて世俗的な言葉で、超自然的なニュアンスは何もない。
ギリシャ語訳の新約聖書に「メシア」が表れないのは、翻訳者が「メシア」を「クリストゥス」に置き換えたからである。しかも彼等は、元来の「メシア」の世俗的なニュアンスを消し去り、魂を救うというヘレニズム的秘教カルトの意味会いをこの語に込めた。(p.76-p.77)
さて、福音書にはイエスの処刑の際にもうひとり、同時に処刑されるはずであった「バラバ」なる殺人者の名前が出てくる。当時の言葉に対する初歩的な知識があれば、「バラバ」は名前ではなく、称号であることが分かるはずである。Barは「~の息子」の意味であり、abbaは「父なる神」を表す。すなあわち、「バラバ」とは「神の子」の意味に他ならない。しかも、マタイ福音書 27-16には、この男の名が「バラバ・イエス」と書いている版がある。 新共同訳フランシスコ会訳聖書(p.81)
1世紀および2世紀のユダヤには、メシアを自称する者が数多く出た。これらの数多くメシアの内の二人が、信者から「イエス」と呼ばれていたのだろう。なぜなら、それはユダヤ人に勝利をもたらす英雄の名だったからである。そこで彼等の一人が「ユダヤの王イエス」もう一人が「神の子イエス」と呼ばれていた。最も古いキリスト教宗派の多くは、イエスの代わりにもうひとりが処刑されたと信じていた。今日でもイスラム教徒は、処刑されたのは身代わりの方だと信じている。(p.83)
紀元1世紀にユダヤで勢力を持っていた集団は、「サドカイ派」、「パリサイ派」、そして「エッセネ派」であった。サドカイ派はエルサレムにおける宗教的・官僚的貴族で、宗教感は保守的で、死後の世界を信じず、パリサイ派のような複雑な考え方をする人々を迷信深い愚者と考えていた。
サドカイ派はローマに追随する売国奴であった。パリサイ派は、あらゆる事項に律法を適応しようとし、きわめてひたむきであった。
エッセネ派は、「死海文書」の発見により、その詳細が判明した。彼等は紀元前2世紀の半ばから紀元 68年まで、エルサレムの東 32kmにあるクムランと呼ばれる砂漠の中で暮らしていた。(p.85-p.86)
「死海文書」を著した「クムラン宗団」がエッセネ派であること、そして彼等が「ナザレ人(=ナザレ教徒)」、すなわち元来の「エルサレム教会」であることは、「死海文書」より明らかである。
「死海文書」に登場する集団は、エルサレム教会と同じ世界観、同様な特殊な用語、そしてまったく同じ終末論的信仰を持っていた。「死海文書」研究の専門家であるロバート・アイゼンマン教授は「紀元 40-50年ころのクムラン宗団の指導者は、イエスの弟である義人ヤコブであり、キリスト教会はこの人物をエルサレム教会の初代司教であると認めている」と述べている。(p.86-p.87)
死海文書のなかの「銅の巻物」によれば、紀元 70年にエルサレム神殿が破壊される直前に、神殿の地下に宝物と文書が隠されたという。12世紀に、聖堂騎士団がエルサレムの神殿跡で発見したのは、最も純粋な「キリスト教」文書であった。(p.91)
さらに深く「ナザレ教」を理解するために、本書ではユダヤ教の成立の時期まで考察を進めている。シュメールは文明の発祥地である。(p.110-p.113)
初期のエジプト人は、シュメールの建築家たちの影響を強く受けていた。(p.133)
エジプト学では、紀元前 1782-1570年を、中王朝と新王朝の間の「第2中間期」と呼ぶ。このとき、異民族ヒクソスが侵入し、6代にわったて征服王朝を築いた。紀元前3世紀のエジプトの歴史家マトネーは「ヒクソスの意味を牧人王」とした。(p.154)
マトネーによれば「ヒクソスは一戦も交えずしてエジプトを征服した」という。これは、ヒクソスはカナン地方から徐々にエジプト社会に流入を続け、混乱の時代に勢力を伸ばして、下エジプトの実権を掌握するに至ったのである。当時のエジプト人が「ハビル」と呼んだユダヤ人の先祖は、ヒクソスの一派と考えられる。これに対して、本来のエジプト王の系統は、下エジプトのヒクソス王朝に服従して、上エジプトのテーベにおいて命脈を保っていた。(p.155-p.157)
フリーメイソンの儀式は、エジプトの神学から由来している。「アポピ」と呼ばれたヒクソス王は、「正統な」エジプト王になるために、テーベにいた本来のエジプト王セクエンエンラ2世(セケンエンラー・タア/セケンエンラー2世)に対して、オシリスの秘儀を明かすように求めた。この闘争は、アポピによるセクエンエンラ2世の殺害に至った。
このセクエンエンラ2世こそ、「メーソン協会」の「始祖ヒラム・アビプ」その人である。セクエンエンラ2世の傷だらけのミイラが発掘されている。その側に、殺害犯らしい生きたまま布で巻かれたミイラも発掘されている。(p.158-p.170)
セクエンエンラ2世の殺害により、本来の秘儀は失われた。息子のカメスは新しい秘儀によりエジプト王になり、ヒクソスに挙兵した。カメス王の弟のアフメスがヒクソスを追い出した。ヒラム・アビプの物語がエジプト起源であるならば、彼はヤハウェではなく太陽神を尊崇している。(p.171)
ユダヤ教の誕生は、モーセによる。彼はエジプト王族の出身で、新しい秘儀を知る立場にあった。「モーセ」は「~から生まれた」の意味で、「トトメスは「トートから生まれた」の意味である。「モーセ」の本来の名前は「ハピメス」(ナイルから生まれた)であろう。
モーセがエジプトから連れてきた民はエジプトの宗教や風習にどっぷりつかっていたので、彼は十戒という形で新しい宗教を確立する必要があった。十戒は石に刻まれており、当時の一般民衆にとっては、文字を書くという行為はそれだけで魔術であり、「神の言葉」だった。(p.174-p.175)
旧約聖書では、「モーセに率いられた 60万人のイスラエル人が 40年間も砂漠をさまよった」というが、そうした数字が粉飾であることは一目瞭然である。イスラエル人は新しい神・ヤハウェになじめず、アピス神に似た神像を祀ったので、ヤハウェは激怒して 3000人を虐殺させた。ヤハウェはカナンの農耕民を征服することを命じた。ヤハウェは大量虐殺の神であった。(p.177-p.180)
放浪のハビル人たちは、カナンの地で徐々にイスラエルという国家を形成し、農工業に従事するようになった。紀元前 1000年ころにダビデがイスラエル王になった。彼には多くの息子があったが、その一人のソロモンが後継者になった。(p.181-p.182)
ソロモンの死後、王国は北のイスラエルと南のユダヤに分裂した。イスラエルの政情は不安定で、紀元前 721年にアッシリアに滅ぼされた。ユダヤは比較的安定していた。これは、ユダヤに伝えられた聖なる王位継承の秘儀がもたらす力のゆえであろう。ユダヤは紀元前 597年にバビロニアに滅ぼされた(p.186)
バビロン捕囚のユダヤ人は、バビロニア人の宗教が自分たちのものと極めて似ていることに気づいた。両者はともに古代シュメールに由来するものであった。ユダヤ人はバビロニアの神話を沢山模倣した。この時代のユダヤ人は厳格な一神教でなく、バビロニアの神々も拝んでいた。(p.187-p.188)
紀元前 539年に、ペルシャ王キュロスの軍はバビロンを無血で占領した。彼は囚われていたユダヤ人のエルサレム帰還を許し、ユダ王国はペルシャの属州となった。紀元前6世紀の終わりころまでに、ダビデの王統を継ぐゼルバベルによりエルサレム神殿が再建された。「ユダヤ人」という概念はバビロン捕囚において生まれ、ゼルバベルの神殿建設により強化された。(p.192-p.193)
紀元前 330年に、アレキサンドロス大王がペルシャ帝国を滅ぼし、中近東はヘレニズム時代になった。ユダヤ教の神学は、元来はシュメール、エジプト、バビロニアなどに由来していたが、独自の神ヤハウェに収束しようとしていた。これに対してギリシャ人は多くの神々を広く受け入れた。エジプトのアレキサンドリアではエジプトの神々とギリシャの神々が習合した。
例えば、エジプトの叡智神・トートとギリシャの神・ヘルメスは習合した。ユダヤ教の祭司はギリシャの影響を拒んだが、民衆はヤハウェとの厳格な契約を忘れてギリシャ的世界秩序を受け入れた。(p.193-p.195)
いつしか、ヤハウェの宗教はオカルティストの興味を惹くようになる。ユダヤ教の中から自分達に都合のよいものだけを取捨選択して、ユダヤ人のものではない新たなカルトが続々と生まれた。このようなカルトの一つが、のちに「キリスト教」と呼ばれることになるギリシャの秘教カルトである。(p.196)
死海文書を書いたクムラン宗団はエッセネ派であり、彼等とナザレ教徒、そして元来のエルサレム教会は同じ集団であった。イエスという男の真の姿も、「死海文書」には正確に記されていた。「マタイ福音書」と「ルカ福音書」は、「マルコ福音書」と「Q資料」と呼ばれる古い福音書の混合物であると判明している。
そして現在では、「マタイ福音書」や「ルカ福音書」に描かれたイエスの誕生物語は、当時の政治的・歴史的状況に無知な後世の人々による創作であることも明らかになっている。(p.198-199)
古代ユダヤでは。「ミドラシュ」「ペシェル」「たとえ話」の知識は必須であった。「ミドラシュ」とは「注釈」の意味で、「神学的真実と指導を見出すためにヘブライ語の聖典を解釈すること」と定義される。これと密接に関連するのが「ペシェル」という技術であり、「聖典の章句を現在や未来のできごとや人と関連させて解釈すること」と定義される。
「たとえ話」はイエスがしょっちゅう用いたとされているので、キリスト教徒にはお馴染みである。新約聖書の主役たち(イエスや十二使徒)は、これらの技法を駆使していた。これに対して脇役たち(パウロ、マタイ、ルカなど)はこれとは全くちがうギリシャ的な思考の持ち主であった。(p.205)
新約聖書の福音書は、主役たちの死後、主役たちを直接知らない著者たちにより、ギリシャ的な思考をする読者のために書かれたものである。ゆえに、新約聖書の虚偽と真実を見極めるためには、ギリシャ的思考の直写主義(文書を文字通りに解釈すること)を取り除き、ラディカルなユダヤ的思考を読み解かねばならない。クムラン宗団とエルサレム教会(イエスの死後、ユダを除く十一使徒により運営された共同体)には、極めて共通点が多い。両者とも自らの呼び名として「神の道」「貧しき者」「光の子」「神の選民「新たな契約の共同体」などの言葉を用いた。(p.206)
死海文書の多くに、ふたりのメシアが登場する。すなわち「祭司のメシア」と「王のメシア」である。当時の人々は、洗礼者ヨハネこそメシアであると考えていた。ナザレ教徒の末裔である南イラクのマンダヤ教徒は、洗礼者ヨハネを自分達の祖と仰いでいた。キリスト教徒はイエスこそが唯一無二のメシアと考えたがるが、ヘブライ語の本来の意味に照らせば、ヨハネは祭司のメシアであり、イエスは王のメシアだった。(p.213-p.214)
紀元 32年に洗礼者ヨハネは、彼の「メシア的」性質を恐れたヘロデ王に殺される。これはイエス自身にとっても、クムラン宗団にとっても、大きな打撃だった。
宗団はヨハネの役割を引き受ける候補者として、イエスの弟の「義人ヤコブ」を立てた。
洗礼者ヨハネを失ったイエスは宗派の掟を捨てて急進的になった。イエスは強大な敵に勝利するために、ふたりのメシアを兼ねて、「終わりの時」の到来を急がせねばならなかった。イエスの計画はあまりにも急進的だったので、彼の家族も、クムランの人々もヤコブの側についた。(p.216-p.219)
イエスの言っていることは、一般には意味不明であるが、クムランの述語を知ればその意味は明らかである。(p.222)
イエスの関心は、単に自分の小さい国にしかないユダヤ人を異国の支配から開放したいという政治的な闘いのことを語っているに過ぎない。(p.225)
「山上の説教」は「クムラン宗団に入って、神の国を迎えよう」という信者募集のスローガンに過ぎない。(p.229)
イエスにとっては、なるべく多くの人間を集め、武装させ、ローマに対する大規模な反乱を起こす必要があった。(p.229)
エルサレムの権力者たちは、危険なメシア運動のふたりであるイエスとヤコブを逮捕した。審理に掛けられたふたりは、ともにイエスと呼ばれていた。ひとりは「ユダヤの王イエス」、もうひとりは「神の子イエス」。すなわち、祭司的メシアであるヤコブの方が、バラバ(神の子)である。ローマのユダヤ総督ピラトは、ふたりともに処刑すると、怒り狂った民衆が暴徒となる恐れをいだいた。そこで、彼はふたりのうちひとりを釈放してやることとして、その選択を民衆に行わせた。民衆のほとんどはクムランの者であり、ヤコブの支持者であった。十分な支持を集められなかった「ユダヤの王イエス」は有罪となり苦難を受けた。(p.235-236)
パウロはヤコブから直接ナザレ教の話を聞いた。異国のユダヤ人でローマ市民であった彼はその意味を理解できず、イエスの死と贖いの物語を、ギリシャ的思考によって解釈してしまった。
パウロはユダヤの反乱分子を狩り出し、洗礼者ヨハネやイエス、そしてヤコブの大儀に転向することはなかった。その代わり、彼は自ら新たなカルトを作りだし、これにヘブライ語のメシアをギリシャ語訳した「キリスト」教という名称を与えた。
彼は自分が会ったこともないイエスを「キリスト」と呼び、信者を集めはじめた。ナザレ教徒の述語を理解しなかった彼は、イエスの教えに含まれた寓意を文字通りに解釈した。
死海文書には、「義の教師」(すなわちヤコブ)に対立する「偽りの説教者」なる人物として、パウロが登場する。(p.249)
紀元 64年に、義人ヤコブはエルサレム神殿でユダヤ教主流派により殺害された。これを契機に民衆の不満が高まり、紀元 64-70年にユダヤ戦争が起こった。この戦争では、ユダヤ人がローマ人に、ローマ人がユダヤ人に、そしてユダヤ人がユダヤ人に、筆舌に尽くしがたい暴虐を働いた。緒戦こそユダヤ人は奮闘したが、最終的にはローマ軍が圧勝した。その結果、エルサレムの市街とユダヤ神殿は燃やされ、クムランも破壊された。神殿の秘宝である「死海文書」がローマの手に落ちないように、モーセからナザレ教徒に受け継がれていた秘密は神殿の地下に隠され、その他の文書は各所に分散して隠された。そのひとつが、クムランの洞窟なのである。(p.256-p.257)
最後に残されたマサダ砦に篭ったユダヤ人全員が自決したとき、ナザレ教の秘密を知る者はだれもいなくなった。神殿の地下に埋もれた巻物は忘れ去られ、イエスとナザレ教の教えは、新たに出現したキリスト教に取って代わられた。
この新たな宗教は、実際には「パウロ教」と呼んだほうが似つかわしい代物であるが、キリスト教の神学が、残されていたイエスの教えの内容を取り違えている事実からして、その宗教の教義はずっとあとの時代に付け加えられたものであると考えられる。パウロが発明した教義は、イエスの持っていた革命的といえる平等主義とはかけ離れたものであった。(p.257-259)
1119年ごろ、聖堂騎士団はエルサレム神殿跡で、ナザレ教徒の秘密文書と財宝を発見したらしい。(p.274)
彼等の発見した至宝は、キリスト教世界に大きな衝撃をもたらした。数十年の間に、彼等はキリスト教世界で最高ともいえる勢力にのし上がった。(p.279)
フランス王フィリップ4世は聖堂騎士団の財産に目をつけて、1307年に団長らを逮捕した。拷問の結果、団長は「イエスは人に過ぎず、全能の神は天と地を作られた偉大な建築家であり、十字架にかけられたりしない」と考えていたことが分かった。エルサレム神殿から発掘されたヤコブのエルサレム教会からのメッセージに基づいて作られた集団であれば、そのような信仰を持つのは当然である。団長が示した教えこそが真のイエスの教えであり、ローマ人が採用したパウロの「磔刑教」より古いものであった。(p.285-p.286)
イエスの教えは彼とともに「死に」、「偽りの説教者」パウロが作り出したヘレニズム的な密儀宗教に置き換えられた。イエスと団長のふたつの磔刑の間の 1274年の間、真のイエスの教えはいったん死に、エルサレムの神殿地下に埋葬されていた。だが、それがひとたび解放されるや、その平等と社会的責任、そして人間の知識の力の概念は、「暗黒時代」と呼ばれる知的空白時代を終わりに導いた。(p.292)
ローマ皇帝にとって一般人とは、平和なときには物を生産させ、戦争時には兵士として使うための道具に過ぎなかった。そして、そのための報酬として、彼等自身の復活と死後の平安を約束したのだ。ローマ教会は、盲目的な信仰を美徳とし、個人の知識を求めるキリスト教文献を「グノーシス的」と名付けて排斥した。(p.292)
聖堂騎士団の団長は捕らえられたが、多くの団員は逃亡した。逃亡先は不明であるが、伝説では、一方はスコットランドに、もう一方はナザレ教の巻物に「メリカ」と書かれた土地を目指した。1308年に、彼等は北米に到達したらしい。スコットランドのロスリング礼拝堂は 1480年代に完成したが、そこには新大陸のトウモロコシやアロエ・サボテンが彫刻されている。(p.293-p.294)
何ゆえにアメリカ合衆国は存在するのか?アメリカ合衆国の建国のプランは過去のヨーロッパにはどこにもない。それはまったく新しく、かつ急進的なものである。それは、フリーメイソン協会と聖堂騎士団を経由して、イエスと呼ばれる男から伝えられた。彼は抑圧の時代に生きながら、すべての人々の平等と正義、啓明を捜し求めた男である。(p.298)
スコットランドに渡った聖堂騎士団はスコットランドの独立に貢献した。スコットランドがキリスト教世界に復帰する交渉と並行して、聖堂騎士団の儀式と思想を受け継ぐ新たな秘密結社の創設が行われた。スコットランドが再び教皇に従うようになったころには、スコットランドの聖堂騎士団はその姿を隠して、フリーメイソン協会となった。ロスリン礼拝堂には、ナザレ教文書が眠っているはずである。(p.324)
本書最後の捕遣において、近代フリーメイソン協会の発展と世界への影響が書かれている。スコットランドのロスリン礼拝堂の完成から、メイソン協会は秘密裏に活動を行っていた。その主な理由はカトリック教会に対する警戒にあった。1603年に、スコットランド王ジェームズ6世はイングランド王ジェームズ1世となった。彼はフリーメイソンとなった始めての国王であった。ジェームズ1世はフランシス・ベーコンを優遇した。彼もフリーメイソンであったが、優れた哲学者であり科学者であった。(p.331-p.334)
1662年、国王チャールス2世は王立協会の設立を認めた。王立協会は、フリーメイソン協会における神の称号である「大宇宙の偉大な建築家」によって創造された驚異を理解することを目的とする、世界初の科学者・技術者の団体である。アイザック・ニュートンやロバート・フックなどの王立協会の初期のメンバ-は、事実上全員がフリーメイソンであった。(p.349-p.350)
1717年に、イングランドでフリーメイソン協会が正式に発足した。それ以来、世界各国に伝播している。アメリカの独立戦争と合衆国建国には、フリーメイソン協会が大きな働きをしている。ワシントンもフランクリンもフリーメイソンであった。(p.353-p.355)
近代社会では、王権神授説より民主的な議会が認められ、貧しい者にも女性にも民主的な権利が与えられる時代になった。イエスと呼ばれた男が夢想した時代が、現実となろうとしている。(p.349)

封印のイエス―「ヒラムの鍵」が解くキリストのミステリー(1998/9/19)

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