ソクラテス(Socrates/BC.470~BC.399)
アテネ生まれ。デルフォイの神託事件以後、自己の使命を自覚して市民との対話を通して、人々に無知を自覚させる活動をしたとされています。
ソフィスト批判
ソフィスト(知恵ある者)が真理の相対性・主観性を主張したのに対して、ソクラテスは絶対的・客観的な真理があることを主張しました。
無知の知
様々な思想家による多様な人間像
わたしは、彼と別れて帰る途で、自分を相手にこう考えたのです。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男も、わたしも、おそらく善美のことがらは何も知らないらしいけれど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている。
だから、つまり、このちょっとしたことで、わたしのほうが知恵があることになるらしい。つまり、わたしは、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。……人間の知恵というようなものは、なにかもう、まるで価値のないものだと、神はこの信託のなかで言おうとしているのかもしれません。
[出典:世界の名著プラトン(田中美知太郎・訳 中央公論新社)]
ホモ=サピエンス(英知人)
ホモ=ファーベル(工作人)
ホモ=ルーデンス(遊戯人)
ホモ=シンボリクス(象徴を操る動物)
ホモ=レリギオス(宗教人)
このような人間観を語る思想家たちは、人間は動物と違い優秀で特別で偉大な存在だと思い込んでいます。動物を見下し、人間さまは偉い!と思い込んでいる特別意識まる出しの存在です。
ソクラテスは、そういういう人達のことを『知らないのに何か知っているように思っている』と。そして『わたしは、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている』と。
ですからソクラテスは、人間と人間以外の生きとし生けるものを比較分別して、偉いとか偉くないとか優れているとか劣っているとか、わたしは、知りませんと。
叡智の人ソクラテスは、そういった差別観がありませんでした。
神に選ばれたとか、人間は神から被造物世界の管理を任せられたとか、これこそ真の真理だ!とか言い出したり、知らないのに知ったかぶりをするような人は、ソクラテスからいわせれば、エゴマルダシ~ノ!ムチマルダシ~ノ!ということになるでしょう。
そんな思い上がりが、地球環境を破壊してしまったわけです。
魂への配慮
人間の本質をなすものは魂である。優れた人間とは魂が優れた人のことであり、金銭や名誉を追求するよりも自らの魂が優れたものになるよう努めなければならない。
ソクラテスはこのような考えから、魂への配慮という生き方を人々に示しました。
わたしは、アテナイ人諸君よ、君たちに対して切実な愛情をいだいている。しかし君たちに服するよりは、むしろ神に服するだろう。すなわち、わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、けっして知を愛し求めることはやめないだろう。わたしは、いつだれに会っても、諸君に勧告し、言明することをやめないだろう。そしてそのときのわたし
のことばは、いつものことばと変わりはしない。
……世にもすぐれた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配しないとは。
[出典:世界の名著プラトン(田中美知太郎・訳 中央公論新社)]
例えば、医者から「あなたは末期がんで余命100日です」と宣告されたとしても、それでも普段と変わらず、いつだれに会っても、あなたたちに勧告をし、言明することをやめないだろうと。
つまり、世間さまが何を言おうがソクラテスには全く関係なく、生活や態度が変わることなどありえなかったのです。
人間の本質は魂・肉体は魂の影である。肉体の欲求のみで生きるのではなく魂の声に耳を傾け、それに従って生きようとするのが真の人間である。だから、魂が主体となった生活でなければならない。しかし、アテナイ人諸君(一般大衆)は、肉欲の赴くまま肉欲に翻弄されながら生きていると、ズバリ!指摘しました。
ソクラテスの『魂への配慮』は、ハイデッガー的に言えば『死の自覚』になるでしょう。
では、魂への配慮がないアテナイ人諸君(一般の人)が医者から死の宣告を受けたらどうなると思いますか?100日後に死ぬワニが、実は医者から死の宣告を受けていたとしたらどうでしょう。そしてあなた自身はどうですか?
死が身近に迫っていても普段と同じく全く変わらない生活をしているとしたら、ソクラテスと同じ魂を持った人でしょう。いつ死んでもいいように死の覚悟、心の準備ができているからです。
一般の人は、自分に何か命にかかわるような不都合なことが降り掛かってから、はじめて考え方が変わったり行動が変わるのではないでしょうか。
諸君の生き方は間違っているから心を改めなさい!とソクラテスは警告したのです。
世間体を気にし、金儲けにうつつをぬかし地位・名誉に固執する人たちからすれば、殺したくなるくらい核心を突く指摘だったわけです。
プラトン(Plato/BC.427~BC.347)
若い頃政治家をめざしていましたが、ソクラテスに出会って弟子となり、哲学をめざすようになったといわれています。著書として『国家』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』『パイドロス』『法律』などがあります。
絶対的・普遍的な真理を主張したソクラテスの思想を受けたプラトンは、普遍的なイデアこそ真実に存在するものであり、このイデアを認識することが真理であると主張しました。
イデア(idea):叡智界
語源的にはidein(見る)に由来。理性(精神)で観るという意味で用い、理性(精神)で観られたものの姿をイデアとしました。
これは、理性(精神)を、幽体(エーテル体・アストラル体・メンタル体)と言ったほうが理解しやすいと思います。
幽体の目で観る、幽体の耳で聞く、というように幽体の五感で知覚・認識されたものの姿がイデアです。
二元論的世界観(二世界論)
世界には感覚によって捉えられる物質世界と、理性によって捉えられる霊的世界という2つの世界が存在します。前者を現象界といい、後者をイデア界といいます。
イデア界とは、つまり霊界(幽界)のことです。
実在形相説
個々の花は、咲きほこりやがて散りゆき消えてゆく。これに対して、『花』という本質(花のイデア)は変わらない。すなわち、個々の花は生成消滅するが、『花』は永遠不変である。それゆえ『花』こそ真の実在(真実在)であり、個々の花は『花』の影、すなわち『花』に似せたもの(模像)』である。
アリストテレスは、師プラトンのイデア論を継承しながらも、イデアが個物から遊離して実在するとした考えを批判し、師のイデアと区別して、エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱しました。
プラトンは、花のイデアは別の世界にあって、それが、現象界の花にエネルギーが流れるように生命力、花のエネルギーを与えているという考え方ですが、アリストテレスは、花の本質であるイデアは花の中に内蔵されていて、花の物質部分と合体したものという考え方です。
肉眼(感覚)で捉えられる現実の事物はすべて生成消滅するのに対して、本質であるイデアは永遠不変である。それゆえ、イデアこそ真の実在であり、現実の事物はイデアの模像であり単なる「影」にすぎない。
プラトンにとっての哲学
哲学の目標
プラトンにとっては、善のイデアを認識すること(=真理・本質を知ること)が哲学における目標であった。このことは現象界からイデア界へ上昇することでもある。哲学は死の練習
イデア(善のイデア)は理性の働きによって捉えられるが、肉体に宿る感覚や欲望は、イデアを認識することの妨げとなる。すなわち、肉体は魂にとっては牢獄のようなものである。イデアを認識する哲学は魂の肉体からの離脱によって可能になるので、「哲学は死の練習」である。
『現象界からイデア界への上昇』とは、幽体離脱や霊的世界と接触したりしてその世界を覚知できること、または瞑想によってその世界が見えるようになることです。それが『哲学の目標』だというのです。さらに『哲学は死の練習』というのですから、これはもはや『宗教の目標』というべきものです。
プラトンとアトランティス大陸
プラトンの著書『ティマイオス』及び『クリティアス』の中でアトランティス大陸について記述しています。都市伝説・空想上の大陸・架空の話で片付けられないのが、このアトランティス大陸の謎です。
プラトンが幽体離脱かなんかして霊的世界に行って、あちらの世界で過去を見て帰ってくることが出来たとすれば、辻褄が合います。
プラトンの輪廻転生思想
人間の魂は不死であり、魂は肉体の生死を繰り返す。死んだ私たちの魂はあの世に行き、それぞれの生前の行為に応じた対応を受ける。
そして充分時が経つと再びこの世に戻ってくる。私たちの魂はあの世で肉体を離れてイデアを観ていたが、この世に戻ってくる際、「忘却の川」の水を飲んだため、あの世での出来事を忘れている。
しかし再びこの世に生まれた私たちの魂がこの世(現象界)で美しいものを見ると、私たちは昔あの世で観たイデアの美しい姿を思い出し、見てみたいと欲求する。
イデアを認識することは真理を知ることであるが、実はこれは昔見たイデアを思い出すこと(想起)である。
エロース(eros)
もともとは古代ギリシアの愛の神、または愛をさすが、プラトンは真の実在であるイデアを恋い慕う精神的欲求をあらわす言葉とした。
魂はつねにイデア界への憧れを持ち、感覚的なものを見るごとにイデアの世界を想起し、本来の善美のイデアを求めていく。
美しい肉体に憧れるエロースの欲求は、やがて美しい魂を求め、究極的には善美そのものを求める。善美なるイデアを憧れ求めるエロースによって、知恵(ソフィア)を愛する哲学(フィロソフィア)が生まれる。
善美に憧れるエロースは、価値ある優れたものを求める愛であり、キリスト教の貧しい者にも平等に与えられる神の愛(アガペー・博愛)と対比される。[出典:倫理用語集 第2版/山川出版社]
エロースは、もともとは古代ギリシアの愛の神。ローマ神話では、クピードー(Cupido)・アモール(Amor)とも呼ばれます。後に、英語読みでキューピッド(Cupid)と呼ばれる天使のような羽を持つ少年か幼児の姿に変化しましたが、元は、力強い有翼の若々しい青年でした。エロースの象徴アイテムは弓矢と松明です。
またエロースはアプロディーテーの傍に仕える忠実な従者とされています。アプロディーテーはエロースにとっての神であり、美の女神なのです。ですからエロースはアプロディーテーに下僕のように付き従いお護りしています。
アプロディーテーは超絶美しい女性ですから、男性にしょっちゅう襲われそうになるのです。そんなときエロースは暴漢と勇猛果敢に戦います。その強さハンパないです。
エロースがアプロディーテーを神として、そして仕えている。このような愛の態度をヒンドゥー教ではバクティ(信愛)といいます。
バクティ・ヨーガでは、『神への愛・夫婦の愛・自己への愛・隣人への愛・全生命への愛』というふうに5種類に分けていますが、親の子に対する愛、友人としての愛、恋人への愛、使用人の主人に対する愛、わんちゃん猫ちゃんへの愛でも、それはすべてバクティです。
エロースはアプロディーテーと結婚したいというような気は微塵もなく、美の女神として崇拝し、彼女をお護りするために命をかけているという純粋な神への愛なのです。したがって、プラトンの言うエロースは神への愛という意味なのです。
善美に憧れるエロースは、価値ある優れたものを求める愛であって、キリスト教のアガペー(博愛)の神の愛とは逆の関係になります。
プラトンの正義の実現:魂の調和
魂の三分説と徳
プラトンによると、人間の魂は理性・気概 (意志)・欲望の3つの部分からなり、それぞれ頭部・胸部・下腹部に宿る。これら3つの部分(魂)がよく働くと徳が生じ、それぞれ知恵・勇気・節制という3つの徳が実現する。そして、これら3つの部分(魂)が調和すると、魂全体に正義の徳が生じる。国家の正義の実現
プラトンは国家のあり方を人間の魂と同様に捉えた。国家は3つの階級からなり、第一が支配者階級、第二が防衛者階級、第三が生産者階級である。そして支配者階級が知恵の徳を、防衛者階級が勇気の徳を、生産者階級が節制の徳を持つとき、国家全体には正義が実現する。※余談:古代ギリシアの奴隷制
上図の国家カテゴリーには、奴隷階級がありませんが、プラトンが活躍した時代のギリシャの国家は奴隷社会でした。奴隷がいたからこそ、奴隷に身の回りの世話をやらせたからこそ時間ができて、そのおかげで哲学が生まれたともいえます。心の構造
フロイトは、人間の心の構造を3つの層に分けて考えた。
①エス(Es)あるいはイド(ldo)…人間の行動のエネルギーをたくわえている無意識の層。さまざまな欲望が意識下に抑圧されている。快を求め、不快を避けるという快感(快楽)原則に従う。
②自我(ego)…自分を取り巻く集団・社会・文化といった現実の中で、エスの欲求を少しずつ満足させていこうとする現実原則に従う。そのため知覚や思考などの機能が発達する。
③超自我(super-ego)…内部からの欲求を抑圧したり、禁止したりする道徳的意識。子供の頃、親から叱られたり、注意されたりする中で形成される良心と、親の「こうあるべき」という価値観が内面化された自我理想からなる。アイデンティティ(自我同一性)
エリクソンは、青年期に達成することが主な課題である自我が統合された状態を、アイデンティティとよんだ。アイデンティティは、自我同一性(ego identity)や主体性と訳されるそれは「私は他の誰とも違う自分自身であり、私はひとりしかいない」という独自性の感覚と、「いままでの私もこれからの私もずっと私であり続ける」という一貫性の感覚からなる、安定感、安心感、自信を意味している。自己同一性
エリクソンは、自我同一性と区別して、自己同一性(selfidentity)という社会的・対人的側面を重視した概念も用いている。この自己同一性は、「わたしとは何者であるかをめぐるわたし自身の観念」である個人的同一性と、「わたしとは何者であるかと、社会および他者が考えているとわたしが想定する、わたしについての観念」である社会的同一性が一致するところに確立されるとした。すなわち、自己同一性の感覚をもつには、他者からの承認が必要となってくる。自己実現
エリクソンがアイデンティティの確立とよんだものを、ロジャーズやマズローなどの心理学者は、自己実現とよんだ。マズローは、欲求階層説の立場をとり、ある階層の欲求はそれより低次の階層の欲求が満たされなければあらわれないものとした。この階層の最も高次にあるのが自己実現の欲求であり、この欲求をもって生きている人は、現状に安住することなく、積極的に現状否定と自己否定を繰り返し創造的に生きるものとした。魂の調和
人間の魂は二頭立ての場所に例えられる。欲望というのは、快楽を求めて地上をうろつく馬であり、気概(意志)は、困難に打ち勝って、善いものを求め天上界に上ろうとする馬であり、理性はその二頭を操る御者である。
魂の調和は、欲望と気概が理性によって制御されるときに生じ、それと同時に魂全体には、正義の徳が生じる。
プラトンのいう『魂の調和』とはすなわち、アイデンティティ(自我同一性)の確立と自己実現のことであり、それにより正義の徳が現るのです。
一方、『プラグマティズム(pragmatism)』という考え方があります。一種の功利主義哲学で、知識が真理かどうかは、生活上の実践に利益があるかないかで決定される実用主義的なものです。超自我・自己同一性しか扱っていませんので、いわば肉体レベルだけの成功哲学のようなものです。一廉の人物だとか出世したとか勝ち組だとか、社会から認められることが自己実現だと思い込んでいる人たちです。たとえ魂の話をしていても、やってることが肉体レベルのカルト宗教や、チャネリング情報に惑わされたり、やってることがモロ商売人スピリチュアル系の人たちも同類です。
参考資料:対応表
幽体 | 個人の魂 | 国家 | インド |
メンタル体 | 理性 | 支配者階級 | バラモン(僧) |
アストラル体 | 気概 | 防衛者階級 | クシャトリア(武人) |
エーテル体 | 欲望 | 生産者階級 | バイシャ(商人) |
※幽体の上位にある原因体(コーザル体)以上を魂とするならば、プラトンの説く『個人の魂』は、パーソナリティ(性格)となる。
※『原因体・幽体・肉体』をフロイトの心の構造と対比するとそれぞれ『エス(無意識)・自我(エゴ)・超自我』となる。
アフロディテ
アフロディーテ