セーレン・オービエ・キェルケゴール
Søren Aabye Kierkegaard/1813~1855
デンマークの思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。
1840年(27歳)に婚約。しかし1年後、婚約後に父親の不倫など自分の家庭の中に様々なトラブルが発生し苦しみと悲しみの闇のどん底に突き落とされる。自分の愛する女性を巻き込みたくないという思いから一方的に婚約を破棄する。
これらの事件が強い影響を及ぼし、深い思索や著作活動に入り、およそ14年間で大量の作品を書いた。
実存の三段階
① 美的実存
第一の段階で、「あれも、これも」と欲望のままに次々と新たな刺激や快楽を求め、感覚的に生きている実存のあり方を美的実存という。しかし、この生き方では、結局いつまでも完全に欲望が満たされることはなく、享楽の奴隷となって自己を見失い、倦怠感や虚無感におそわれて絶望におちいる。② 倫理的実存
美的実存で絶望した者が、自己を取り戻して誠実に生きようとするとき、第二の段階である倫理的実存に目覚める。ここでは「あれか、これか」の選択を真剣に行い、自己の良心に従って他者への義務を果たし、責任をもって社会生活を営もうとする。しかし、道徳的・倫理的に生きようとすればするほど、自らの有限性や罪深さに気づき、倫理的生活の困難さを思い知り、絶望におちいる。③宗教的実存
こうした不安と絶望が、人間を実存の最後の段階である宗教的実存へと導く。
この段階では、人間は絶望を抱きながら神の前に単独者としてただ一人立つ。
神と人間との間には、越えがたい本質的な断絶や矛盾があるが、単独者は自らの全存在を賭けた決断によってその矛盾を乗りこえ*、信仰へと飛躍する。
人は、自己を存在させた根拠である神の前に一人立ち、自己を神の手にゆだね、本来の自己を回復する。*神と人間の間にみられるような質的な断絶・矛盾は、ヘーゲル流の「あれも、これも」の止揚による総合は不可能で、「あれか、これか」の実存をかけた決断・選択、あるいは信仰の情熱によって初めて乗りこえられるという。キルケゴールはこれを質的弁証法とよび、これに対し、ヘーゲルの弁証法を量的弁証法とよんで区別した。
キルケゴール『実存の三段階』と、パスカル『人間の生の3つの秩序』
キルケゴール ⇐⇒ パスカル
①美的実存 ⇐⇒ 身体(物質)の秩序
②倫理的実存 ⇐⇒ 精神の秩序
③宗教的実存 ⇐⇒ 愛の秩序
人間の不安と絶望が、実存の最終段階である宗教的実存へと導くのだとキルケゴールは言います。
マイスター・エックハルト(Meister Eckhart)
キルケゴールを更に深く理解するため、エックハルト(1260年頃~1328年頃)の言葉を紹介いたします。
愛は神のためにすべてのことを耐えるよう私に強いるが、離脱は神以外の何ものも私が受け入れることのないように仕向ける。
神のためにすべてのことを耐えることより、神以外の何ものも受け入れないことの方が遥かに価値あることである。
なぜなら、耐える苦しみの中では、その苦しみをもたらす被造物へ、人はまだ何らかの眼差しを向けているが、それに対し離脱は、一切の被造物から完全に解き放たれているからである。
だから、離脱が神以外の何ものも受け入れることがないということを、私は次のように証明する……
[出典:エックハルト説教集]
エックハルトは、以下の三つの条件を満たすものを『最高の徳』と定義しました。
①人間が自身を最大限に、最も近しく、神に結びつけることができる。
②神が本性からあるものに、人間が恩寵からなることができる。
③神が被造物を創造する以前、その内で神と人間の間にはいかなる差異もなく、人間が神の内でそれであった、その像と人間が最大限に一致する。
そして、この『最高の徳』を離脱(abegescheidenheit)と名付けました。
このようにエックハルトは、情緒的・心情的な愛よりも『離脱』を上位に置きました。
エックハルトは、被造物と神を対比させたとき、自分は神を取る。後の一切のものは捨てると言っているのです。自分にとって価値がないと思ったものはバシッとスッパリ完璧に捨てることができるスキル。これがキルケゴールの「あれか、これか」なのです。
ごくふつーの人々は、断捨離!とかいってドヤ顔で要らないものをバンバン捨てることができますが、これがお金とか功利的なものなるとそうはいきません。ところが、キルケゴールやエックハルトのような精神に到達した人はそれを平然とやってのけるということなのであります。