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旧統一教会元信者の衝撃告白手記(21):統一教会に関わった者が持つ恐怖心について【転載自由】

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統一教会に関わった者が持つ恐怖心について

そう、あれはぼくがまだ教会に在籍している頃、今から14、5年くらい前のことでした。(1985年頃)前線部隊に配属される前に脱会した、ある独身女性から相談を受けたことがあります。

喫茶店で待ち合わせて、久しぶりに彼女と会いました。3年ぶりです。
いろいろ世間話、思い出話などしていましたが、さすがに話題も尽きたので、本題に入ることにしました。

それまで笑顔だったのが急に顔色が変わって、みるまに暗い顔になりました。
「実は……今度結婚することなったのですが、この世で結婚すると不具の子が生まれたり、家庭が不幸になるといわれたのですが本当ですか……」

ああ、やっぱり脱会者はこういう恐怖心を引きずっているのだなあ、と心の中でつぶやくと同時に、とても悲しい思いになりました。
きっと、そういう出鱈目なことを植え付けた者がいたのでしょう。
大体察しはつく。

ぼくは余計なことを一切言わないで、迷わずキッパリとこういいました。

「そんなこと絶対ありませんだいじょうぶ」

そもそも僕自身の中に、脱会した者は不幸になる、などという妄想はありませんからそう断定したのですが、これがたとえば教会組織に飼い慣らされているような、チャーチマザーという名の耳年増ねえちゃんなんかが相談受けたならば、
よくて「うーん」とか唸ったり困った顔をして相談者をますます恐怖に貶めるか、
最悪の場合、「そうよ。脱会してこの世で結婚したら地獄よ」とかいうのは目に見えている。

ともかく、彼女は納得して明るい顔になって帰っていきました。
恐怖心を克服できたのです。
この納得の仕方も信仰の一種です。

彼女は万民救済を説く統一教会に来てから悩みが増え、恐怖心を植え付けられ、不幸のどん底に落とされました。統一教の信仰をすればするほど、来世の恐怖心に苛まれました。それから逃れるために脱会したのです。離れても、恐怖心は募るばかり。
かといって、戻ることもできない。

つまり、彼女は統一教を棄ててもなお『恐怖信仰』をしていたのです。
その恐怖から解放したのがおやぢの拙い山形なまりのある「だいじょぶ」という一言だったのは、皮肉なことです。

統一教会内で芽生えた恐怖心は結局自分が自分で作りだしているものだ、とぼくは思っています。ですからそれは自分の納得の仕方で克服できるものなのです。

鰯のかしらも信心から

これはふつう、頑固に信じこんでいる人をからかう場合に使われる言葉ですが、信じている人にとってそれが幸せなことならば、あるいは不安や恐怖を克服するものであるならばそれはそれでよいことです。

もしぼくが鰯の頭的信仰を十分納得していて、しかも幸せで、不安も恐怖も感じないならば、人からバカにされようがなにしようが全く意に介さないことでしょう。

いわし信仰も馬鹿にできないのです。
でも、本人が幸せで楽しければなんだっていいじゃん。てなことを云っているのでは決してありません。もちろん、社会人としての義務を果たした上で、です。

神を信じている人に対して「バーカ、神なんかいねーんだよ!」と言っても納得しないでしょう。
また、神がいないということを信じている人に対して「悔い改めよ!神はいるのじゃ!」と言っても納得しないでしょう。

もちろん神がいてもいなくても関係ない人もいる。
そんなことより問題なのは今日の昼飯なにすっかな、みたいな。(土方時代のおやぢがそうだった)

霊界があるということで納得する人。
霊界がないということで納得する人。
ひとそれぞれ、人生いろいろ、霊界?いろいろ。

メルマガに登場する実在の食口、K牧師さま、T君、D君らは統一教の信仰をしていているので不信したり疑問に感じることはないのです。
彼らにとってそれがいわしの頭なのです。
彼らは彼らなりの納得の仕方をしているのです。
干渉する余地はありません。

でもぼくは、一時期統一教会にどーっぷり浸かってましたが結局『日本統一教信仰』や『文鮮明信仰』『古田体制信仰』などには納得できなかった、と。
こういうことです。

ぼくに幸福をもたらす『いわしの頭』はそこにはなかったのです。

経営ゴッコをしている破家幹部が事業を失敗した穴埋めするため、多額の献金を要求されても、教会内で不正が行われているのを知っていても「幹部といえどそれはまだ我々が完成していない堕落人間ですから……」などとわかったような口を利く者はそういう腐れ幹部に一生利用されて、虚構の幸せを満喫していればいいんです。
それが彼らなりの変な信仰なのですから。

文氏のことを完璧にメシアと信じている人はきっと幸せなのでしょう。
(文氏はメシアだと自分に納得させているということ)しかし、世間さまは文氏がメシアであろうがなかろうが、そんなことは関係ない無関心、オヨビでない、という人がほとんどです。

クリスチャンの方なんかは統一教会、オヨビでないんですってね。
青筋立てて、「文氏はメシアなんかじゃないったらないんだ!」なんて言わないんです。つまり相手にしてないんです。
否定すらしないんです。

ですから、統一教、文鮮明教の呪縛から逃れるには、それに代わる納得できるなにかを持たないといけないのだと思います。
ところが、まだ見ぬ地獄とやらに行きたくないから統一教の信仰を棄てられないんだ、という人は、統一教がいわしの頭になる。
統一教の信仰を棄てることによって自分は地獄にいっちゃうんだと怯えているのなら統一教の信仰を熱心にするしか方法はないのです。
統一教会から離れたいと思わないのなら、それしか方法がないのです。

ただ……
どうせ信仰するんだったら、原理に沿った信仰をしたらいんじゃないか、とは現役食口たちを見ててそう思います。
原理では教えてない、つまり自分なりの変な解釈の信仰はやめなはれ、みたいな?

あんた一体何教なの?みたいな。

そういうことは現役食口に気づいたら進言してきました。
でも、おやぢがいくら言っても気づかない人は、それはそれで納得しているのですからぼくが何いってもしゃあないんですけどね。

信じている人にとってそれが幸せなことならば、あるいは不安や恐怖を克服するものであるならばそれはそれでよいことです。
でも、(植え付けられた)恐怖や不安から逃れることはできても必ずしも幸せにはなれるとは限らない。
ですから、統一教会にいながらも幸せでない人は、とっとと辞めたほうがいいのです。

統一教会先達(777双):I氏の回顧録

共産、自由、統一教会このやりとりは、わたくし勝共路線に教会が針路変更したとき、なぜだの質問を文氏にしました。
はっきりしたお答えはいただけなかったのですが、おおよそつぎのようでした。
・文氏が北で酷い目に会ったから
・韓国の国是に会うから
この2点でした。
また私がこの質問をした理由は当時の人はおわかりでしょうが本当に教会は中立だったのです、その前まで。
さて原理講論はというと二つに分ける立場はあるが本来神は中立です。
摂理上アベルを立てて歴史を進めるだけです。
そこで注意してほしいのは原理講論、統一教会、文氏、そのた、すべて一枚岩で同一視できるのかということです。
これからの教会のたどる道を見ていかないと外見上の判断はできません。
私、少なくとも原理講論は浮いた存在と見ています。
だから、み言葉集、その他でほころびを繕っているとしか思えません。

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