【老子】
生没年は不詳、紀元前5世紀~前4世紀の思想家と推定され、道家の開祖。
『道は万物の成立根拠として、万物に先立って存在する「天地の始め」であり、そこから万物を生み出す根源として「万物の母」とされる。道は、万物を永遠に生みつづけながらも、それ自体は人間の感覚や知覚によって把握できない神秘的な宇宙の働きであるから、形がなく名づけようのない無〈老子〉とも呼ばれる。また、道はそれ自体として存在し、万物をありのままに生み育てるので、自ずから然るもの、自然〈老子〉とも呼ばれる。儒教が社会の道徳的秩序に基づく人倫の道を説いたのに対して、老子はそのような作為的な道徳や文化を否定し、万物をあらしめる自然の道に従う無為自然の生き方を理想とした。
老子の教えを一語でいうのは非常にむずかしいが、あえて言うとすれば、『何もしない』ことをする。何もしないことのススメ。といえよう。老子はそれをどのように表現しているかといえば“無為自然”という。
「無為」というのは、たんに、何もしないでぼんやりしていることではない。コツは、小魚を煮るのと同じ要領だ。小魚を煮るとき、へたにかきまわすと、バラバラに砕け目いささかむずかしい理屈になるが、老子のいう「無為」とはこういう意味である。
老子は、この宇宙間に生起する森羅万象の奥に、あるもの-それ自身一定の運動法則を持ったある実体を認め、それを「道」と名づけた。老子のいう「無為」とは、この「道」を認識し、「道」の働きと一体化することだ。換言すれば、運動法則にもとづいて主体的に行為すること、それが老子のいう「無為」である。行為するけれども、法則(道)にのっとって行為するから、どこにも無理がなく、きわめて「自然」に見える。
だから「無為」の体現者は、一見すると、阿呆のように、うすぼんやりした存在として目に映じるのである。
老子は、「無為の治」について、さまざまな角度から語っている。しばらく、そのことばに耳を傾けよう。
たとえば「大国を治むるは小鮮しょうせんせん)を烹(に)るがごとし」ということばだ。国の政治をうまくやるコツは小魚を煮るのと同じ要領だ。小魚を煮るとき、へたにかきまわすと、バラバラに砕けて味もまずくなる。それと同じように、国の政治も法律や規則でしめあげ、ああでもないこうでもないと下々のことに干渉しすぎると、かえってうまくいかない。ざっとこんな意味である。大国の「大」には意味はなく、かりに小国であってもさしつかえはない。
老子はまた「聖人には常の心なし、百姓(ひゃくせい)の心をもって心となすしともいっている。聖人は定まった考えを持たない。人民の心を心とし、人民の心に従って政治をするというのだ。
さらに老子は、「聖人云う」として、「われ無事にして民おのずから化す。われ静を好んで民おのずから正し。われ無事にして民おのずから富む。われ無欲にして民おのずから撲なり」
(わたしが無為であれば、人民はおのずと生きる。わたしが動かずにいれば、人民はおのずと正しくなる。わたしが手を下さなければ、人民はおのずと豊かになる。わたしが無欲であれば人民はおのずと本性にもどる)とも語っている。
[出典:「老荘思想の読み方」守屋洋著/徳間文庫]
”無為自然”というのは、無気力で退嬰的な生き方ではない。無為を為(な)す」の本質は、老子が繰り返し言う『足るを知る』にある。
三十三章:辯徳
知人者知。自知者明。
勝人者有力。自勝者強。
知足者富。強行者有志。
不失其所者久。死而不亡者壽。
人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志(こころざし)有り。
その所を失わざる者は久し。
死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。
*
第四十四章:立戒
名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。
是故甚愛必大費。多蔵必厚亡。
知足不辱。知止不殆。可以長久。
名と身と孰(いず)れか親しき、身と貨と孰れか多(まさ)れる。
得ると亡(うしな)うと孰れか病(うれい)ある。
この故(ゆえ)に甚(はなは)だ愛(おし)めば必ず大いに費(つい)え、
多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡う。
足るを知れば辱(はずか)しめられず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず。
以(も)って長久なるべし。
*
第四十六章:儉欲
天下有道。却走馬以糞。
天下無道。戎馬生於郊。
禍莫大於不知足。咎莫大於欲得。
故知足之足。常足矣。
天下に道有れば、走馬を却(しりぞ)けて以(も)って糞(ふん)し、
天下に道無なければ、戎馬(じゅうば)郊(こう)に生ず。
罪は欲すべきより大なるは莫(な)く、禍(わざわ)いは足るを知らざるより大なるは莫く、咎(とが)は得るを欲するより惨(いたま)しきは莫し。
故に足るを知るの足るは、常に足る。
*
老子は、無欲で貧しくあれ、といっているのではない。身の程を知り、己れの欲望を抑えることが大切だといっている。逆に、己れの欲望を達成させるための最良手段こそ、実はこの欲望を抑えることだといっているのである。
『足るを知り、止(とど)まるを知れば危からず。これこそが無事に生き残る道』
人は誰もが無事を願う。無事とは有事の反対で、人生における有事とは凶事を指す。人のあらゆる欲望を達成するためにはまず身の安全を確保しなければならない。ブレーキの効かない車に乗れば凶事に遭うのは必然である。
乱世を生き抜く知恵
老子が生きた時代は戦国時代。老子は、乱世にどのようにして生き延びるか、という知恵を説いた。
現代は戦国時代でないから老子の教えは必要ないと思うかも知れないが、実はそうではない。アルビン・トフラーによれば、第三の波が押し寄せてきている時代である。
トフラーは著書『第三の波』の中で、人類はこれまで大変革の波を二度経験してきており、第一の波は農業革命(18世紀の農業における変革でなく、人類が初めて農耕を開始した新石器革命に該当)、第二の波は産業革命と呼ばれるものであり、これから第三の波として情報革命による脱産業社会(情報化社会)が押し寄せると唱えている。[出典:Wikipedia]
第二の波、それを今われわれが最も自然であり正しいものだと思っている。ところが、学校教育制度のあり方、企業のあり方、議会制度というものが、今までの体制では無理が生じつつある。制度そのものが、第三の波が押し寄せてきて崩壊しつつある。そして、第二の波に固執する人と、第三の波を支持する人とが今まさに死闘を始めようとしている。(始まっている?)現代もある意味では乱世といえるのではないだろうか。
我々を束縛するもの
ジッドゥ・クリシュナムルティは言う。
「自由こそ最初のそして最後の一歩である」
では、我々は何から自由にならなければならないのか?
それは「思考こそその元凶であり、我々を呪縛しつつづけているものである」と。
この難解な教説を理解するために、まずは思考と意識を別物と考えてみる。
ここでいう意識とは、『生命あるいはすべての存在をこの世に表出せしめている力』である。老子はそれをタオ(道)と呼び、仏教では般若と呼んでいる。
また古代ローマの哲学者プロティノスは「あらゆる存在はただ一者より流出する」と唱え、この一者を『ト・へン to hen』と呼んだ。「このものは存在自身でないゆえに、存在の産出者なのであり、このものが完全成熟して溢れ出すと存在となる」と説く。思考とは、記憶をもととした連想であり反復増大する二次的意識であり、存在の根本的意識の上に構築されたものである。
ジッドゥ・クリシュナムルティは言う。
「思考は記憶であり、経験、知識である。思考はそれ自身その本性や構造が分裂的断片的である。それは快楽と同時に葛藤、争いを生じさせ、悲嘆や苦痛のもととなるのです」
「思考の放棄とは、自己の放棄でもあります。この瞬間が愛であり、共感および慈悲であります」と。
『道』とは身体意識を超えた意識
道というのは無であって、しかも自然としての相も持っている。
老子を単純に読んだだけでは、全面的に文化を否定しているように読めてしまうが、作為的な文化や道徳というものを否定しているのであって万物をあらしめる自然の道に従う無為自然の生き方が理想であるとしている。
第一章:體道(体道)
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道の道とす可(べ)きは、常の道に非(あら)ず。名の名とす可きは、常(つね)の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に、常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼(きょう)を観る。
此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす。同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。はじめの「道」は、日常的に言われる道理としての「道」であり、次の「道」は動詞で、次の「名」とも対応するので、「道とする」という意味に解した。最後の「道」は老子哲学の根本概念で、宇宙を構成する根元的な実在であり、理法である。変化し運動するので「不変」ではないが、実体として常在する。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
これは有名な老子の冒頭部分で一番難解な部分でもある。
體道とは、根源的な『道』を身につけること、『道』の玄妙な働きを理解することつまり『道』を体得すること。
老子の説く『道』は、世間一般で云われているような道理としての道ではなく、究極の真理としての『道』を表している。荘子のいう『道』は身体意識的な『潜在意識・顕在意識』レベルがだが、老子は身体意識を超えた『無意識・潜在意識・顕在意識』レベルである。
「妙」は微妙で奥深いありさまを表わし、あまりにも奥深くて見ようとしてもよく見えないことで、言いかえれば「道」のすがたを示している。
「欲」は、世俗的な立場でのさまざまな欲求のことであって、つまり現実的な活動のこと。
「徼」は、帰結や端の意味で、天地が生成され万物が活動している状態のことであろう。現実の天地万物は世俗的な認識の対象となるが、根元的な道は、そうした認識では把握できないということを言ったもの。
「玄」を重ねたのは、「玄」ではあるが現実的に認識できるものと、無限に「玄」の方向にあるものとを区別したのであろう。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
欲が無ければ、其の妙という微妙な部分は観える。欲が有ると微妙な部分が観えなくて、現実的な活動の方の世界、すなわち徼の方を観る。
楼宇烈『老子道徳経註校釈』による老子解釈
楼宇烈(Lou Yulie)『校釈』に拠って正しながら解釈すると、
「玄とは冥(くら)くてひっそりとしていて、物として存在しているわけではない。始とは、母が出てくる所である。名づけることができないから、(始と母を)同じように玄と名づけると言うわけにはいかない。そうできないのにそのように称するのであれば、玄は一つだけであると定めるわけにはいかない。もし玄は一つだけであると定めれば、その名は真実から遠く外れてしまうであろう。だから、玄のうえにも玄と言ったのである。もろもろの微妙なものがみな玄から出てくるから、衆妙の門と言ったのである」
という趣旨のことを言っている。いささか難解であるが、ほぼ『老子』の文意を把握しているといえよう。
万物の"神秘な扉"の向こう側
数学における「ゼロの発見」と同様に、老子の「無の発見」は、後世の中国哲学に大きな影響を与えている。中国古典の中で最も哲学的・数学的な本は「易経」であるが、これにしても陰陽対立以前のものにまで想到しえただけで、「無」までは考えつかなかったようである。
《道の動きは「返る」ことであり、道の働きは「弱い」ことである。すべての物は「有」から出、その「有」は「無」から出る》
ここで有というのは天地であり、無というのは道である。道は万物のもとであるが自分では柔弱の働きをして、また無に返ろうとするものである、と老子は考える。そこから、老子は認識の根本に切りこむ。《道といえるような道は、常の道ではない。名づけられるような名は、常の名ではない。物の始めには名がない。名が出てはじめて物が出る。常の無欲で神秘を見、常の欲ですべてを見る。この二つは、名は違っても出は同じ。真の深さがすべての門》
これは、今の「老子」の第一章であって、老子の根本的な考えを述べたものである。古來、難解とされているが、そんなにむずかしいことではない。
老子は万物が生まれる前の何かを考える。それは名前もつけられない。漠たる状態である。しかし、そこから万物が生まれる。現在、最先端の物理学では、宇宙の始まりはビッグ・バン(大爆発)だとされている。それ以前、すべての物が一箇所に集まっていたのだろうが、その状態の名称はまだついていない。つまり宇宙物理学では、では、ビッグ・バン以前は考えないことになっているらしい。ただ、この大爆発以後、宇宙は限りなく膨張を始め、その過程で太陽地球が創られたことは名言している。老子は二千年前に、現在の物理学の傾域まで見抜いていたかのようである。
ところで万物が生まれれば名前がつく。しかも、その万物はふつうの感覚(常の欲)で見分けられるが、その根本の何かは、ほんとうの無心(常の無欲)で見なければわからない。その根本、玄のまた玄(真の深さ)が、万物の神秘な城なのだ、と老子は説く。これも、現在の宇宙物理学の考え方と、あまりにも似通ったものと言えよう。
ところで、これをもう少し身近に言い換えると、われわれは、世の中のさまざまなことに左右されている。しかし、その奥に潜む自然の道の流れを見ると、世の中は、結局、道のまま、自然の道理に従って動いている。乱世にあっては、現在のこともわからず、1年先のことなら、なおさらである。無心に透徹した目によって、はじめて真実のの姿を見つけることができるのである。
[出典:「老子の読み方」月洞譲/祥伝社]
聖人の政治とは
第三章:安民
不尚賢。使民不爭。不貴難得之貨。使民不爲盗。不見可欲。使民心不亂。
是以聖人治。虚其心。實其腹。弱其志。強其骨。常使民無知無欲。使夫知者不敢爲也。
爲無爲則無不治。
賢を尚ざれば、民をして争わざらしめ、得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしめ、欲す可きを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
是を以て聖人の治は、其の心を虚しくし、其の腹を実し、其の志を弱くし、其の骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、夫の知者をして敢て為さざらしむるなり。
無為を為せば、則ち治まらざるは無し。
人君*が才能ある者を尊重しなければ、人民は争わないようになる。人君が珍しい財宝を尊重しなければ、人民は盗みをしないようになる。人君が多くの欲望を持たなければ、人民は乱れなくなる。
そういうわけで聖人の政治は、心を単純にさせて腹をいっぱいにさせ、こころざしを弱めて筋骨を丈夫にさせ、いつでも人民を無知無欲の状態におき、あの賢しらな者には行動をさせないようにする。無為によって事を処理していけば、治まらないことはないのだ。(※註:人君とは支配者のこと。)
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
文章表現を変えて解説する。
★人民が争わないようにするには、支配者が才能ある者を尊重しなければいいのだ。
⇒つまり心の清らかな者、誠実な者を尊重すればいいのだ。
たとえば企業では、才能でなくその人の心・責任感や誠実さで社員を選んだなら、その会社はとても良くなる。なぜなら才能や技術は足りなければ後からいくらでも学んでいけるものだから。
しかし、責任感や誠実さに欠けるような者は、必ず会社に不利益なことをする。最終的には会社の信頼を失ってしまうことになりかねない。
★人民が盗みをしないようになるためには、支配者が珍しい財宝を尊重しなければいいのだ。
⇒財宝ではなく人の命を尊重するのだ。人の命を尊重するということは、人々に米とかの食糧を平等に与えるということ。
・人民は乱れるのは、支配者が多くの欲望を持つからだ。
⇒支配者が持つべき欲は人民の幸福だけ。
道と一体になる
第六章:成象
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存。用之不勤。
谷神(こくしん)は死せず、是れを玄牝(げんぴん)と謂う。玄牝の門、是れを天地の根(こん)と謂う。綿綿として存するが若く、之を用いて勤(つ)きず。
谷の神は不死身である。それを玄妙なる牝という。玄妙なる牝の陰門を、天地の根源という。ずっと続いて存在し続けているようであるが、いくら働いても尽き果ててしまうことはない。
「玄」は、うす暗くて、測り知れぬほど奥深いありさま。「牝」は母性、生殖性。「谷神」が尽きることなく万物を生み出すことを「牝」と言ったが、その作用の不思議さは把握できないから「玄」としたもの。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
『谷神』=『玄妙なる牝』=『天地の根』⇒潜在意識のこと。
第十章:能爲
載營魄抱一。能無離乎。
專氣致柔。能嬰兒乎。
滌除玄覽。能無疵乎。
愛民治國。能無爲乎。
天門開闔。能爲雌乎。
明白四達。能無知乎。
生之畜之。
生而不有。爲而不恃。長而不宰。是謂玄徳。
営魄(えいはく)に載りて一(いつ)を抱き、能(よ)く離るること無からんか。
気を専(もっぱ)らにし柔(じゅう)を致して、能く嬰児(えいじ)たらんか。
玄覧を滌除(てきじょ)して、能く疵(きず)無からんか。
民を愛し国を治めて、能く無為ならんか。
天門、開闔(かいこう)して、能く雌(し)と為らんか。
明白にして四達(したつ)し、能く無知ならんか。
之を生じて、之を畜(やしな)う。
生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず、是れを玄徳と謂う。
心と身体とをしっかり持って合一させ、分離させないままでいられるか。精気を散らさないように集中させ、柔軟さを保ち、赤子のような状態のままでいられるか。玄妙な心の鏡を洗い清めて、傷をつけないままでいられるか。人民を愛し国を治めるのに、知恵によらないままでいられるか。目や耳などの感覚器官が活動するとき、女性のように静かで安らかなままでいられるか。あらゆる物事についてはっきり分かっていながら、知恵を働かさないままでいられるか。
万物を生みだし、養い、生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、成長させても支配はしない。これを奥深い徳というのだ。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
『万物を生みだし、養い、生育しても所有はせず』⇒子育ての奥義
この解説は、赤ちゃんが周りをじーっと見ているような意識状態、つまり瞑想状態のことを表現している。
犬や猫など、動物達はみんな『道』と一つになっている。無為自然に生きている。ちゃんと気づいていながら、知恵を働かさないで生きている。ところが人間だけは欲の絡んだ己の目的のためだけに生きている。
大いなる道が廃れる
第十六章:歸根
致虚極。守靜篤。萬物竝作。吾以觀其復。
夫物芸芸。各歸其根。
歸根曰靜。是謂復命。
復命曰常。知常曰明。
不知常。妄作凶。
知常容。容乃公。
公乃王。王乃天。
天乃道。道乃久。
沒身不殆。
虚を致すこと極まり、静を守ること篤く、万物並び作(おこ)れども、吾れ以(もっ)て復(かえ)るを観る。
夫(そ)れ物は芸芸(うんうん)たるも、各々其の根に帰る。
根に帰るを静と曰い、是れを命に復ると謂う。
命に復るを常(じょう)と曰い、常を知るを明と曰う。
常を知らざれば、妄(みだり)に作(な)して凶なり。
常を知れば容(よう)なり。容は乃(すなわ)ち公なり。
公成れば乃ち王たり、王なれば乃ち天なり。
天なれば乃ち道なり、道なれば乃ち久し。
身を没するまで殆(あや)うからず。
心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。
根元に復帰することを静といい、それを命(めい)つまり万物を活動させている根元の道に帰るという。命に帰ることを恒常的なあり方といい、恒常的なあり方を知ることを明知という。恒常的なあり方を知らなければ、みだりに行動して災禍をひきおこす。
恒常的なあり方を知れば、いっさいを包容する。いっさいを包容すれば公平である。公平であれば王者である。王者であれば天と同じである。天と同じであれば道と一体である。道と一体であれば永遠である。そうすれば、一生、危ういことはない。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
『恒常的なあり方を知ることを明知という』⇒王陽明のいう良知に該当。
第十八章:俗薄
大道廢。有仁義。知慧出。有大偽。
六親不和。有孝慈。國家昏亂。有忠臣。
大道廃(すた)れて仁義有り、知慧出でて大偽有り。
六親(りくしん)和せずして孝慈(こうじ)有り、国家昏乱(こんらん)して忠臣有り。
それゆえ、大いなる道が廃れだしてから、それから仁義が説かれるようになった。知恵が働きだしてから、それから大きな虚偽が行なわれるようになった。家族が不和になりだしてから、それから孝子や慈父が出てくるようになった。国家が混乱しだしてから、それから忠臣が現われるようになった。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
樸(あらき)という生き方
第三十二章:聖徳
道常無名。
樸雖小。天下莫能臣也。
候王若能守之。萬物將自賓。
天地相合以降甘露。
民莫之令而自均。始制有名。
名亦既有。夫亦將知止。
知止所以不殆。
譬道之在天下。猶川谷之於江海。
道(タオ)は常に無名の樸(ぼく)なり。
小なりと雖(いえど)も、天下に能(よ)く臣とするもの莫(な)きなり。
侯王(こうおう)若(も)し能くこれを守らば、
万物は将(まさ)に自ら賓(ひん)せんとす。
天地は相い合(がっ)して、以(も)って甘露(かんろ)を降し、
民はこれに令する莫くして、自ら均(ひと)し。始めて制して名有り。
名亦た既に有れば、それ亦た将(まさ)に止まることを知らんとす。
止まることを知るは殆(あや)うからざる所以(ゆえん)なり。
道の天下に在(お)けるを譬(たと)うれば、
猶(な)お川谷(せんこく)の江海(こうかい)に於(お)けるがごとし。
*
樸(あらき)とは材木までいっていない、山の木を切って薪にしたようなもの。
この木からいろんな道具を作ることが出来るが、いったん道具にしてしまうとなるとその用途にしか使えない。
樸のように、無限のエネルギーを持ちながら、自分から動こうとしない何かを、仮に道(タオ)と名づけよう。
『大は少を兼ぬと雖(いえど)も杓文字は耳掻きの用を為さず』
大は小を兼ねる、というけれども、しゃもじは耳掻きにはならない。しゃもじのように生きていれば必ず成功し、人ともうまくやっていけて、幸福な人生が過ごせる。だから、耳掻きになるよりしゃもじになれ。
これを世間さまが″座右の銘″とか″金科玉条″とか″モットー”などと言う。
ところがこのようなモットーとか金科玉条は、時と場所と状況によって役に立たないどころか、正反対のカを発して有害になる場合さえあるのだ。それは、このしゃもじと同じ。我々がしゃもじになろうとすれば、人間的にしゃもじとしてしか役に立たない。
しゃもじはしゃもじの役にしか立たないが、自分が樸であれば、これから何らかの役に立つだろう。「しゃもじになってくれ」と言われればしゃもじになる。しゃもじのお役目を努めていて、そのうちに環境が変わり、またある人が「耳掻きになってくれ」と言われたら、今度は耳掻きになれる。これが道(タオ)を体得した者の在り方なのである。
ところが、このようなことをしていると「あいつは何を考えているのかよく分からん」とか「ひょいひょい信条が変わっている」と言って訝しげに思う人がいる。しかし道(タオ)の人には信条などないのだ。樸というものはなんにでもなれる。だからこそ人の上に立ち、社会をリードしていくことができる。
樸の反対は器
樸は君主となれるが、器(うつわ)は臣下にしかなれない。
この競争の社会、自分が他人より抜き出ていこうと努力している社会で、その地位に停滞していたければ器になればよい。よりよき向上、それが精神的意味であれ、物質的意味であれ、他人より上に行きたいと思うなら、器の思想を捨てて、樸の思想にならなければならない。
では樸の思想は政治的にはどのようなものかといえば、それは「理想的君主は何もしない」ということ。
鼓腹撃壌(こふくげきじょう)
昔中国に撃壌という木製の履物を遠くから投げて当てる遊びがあったという。民が満腹して撃壌で遊んでいる時は君主は何もしない。
あるいは古代中国伝説上の聖天子である尭(ぎょう)が、世の中が治まっているのかどうかを確かめるために、ひそかに市井出たとき、老人が腹つづみをうち、地面をたたいてリズムをとりながら、太平の世を謳歌おうかする歌をうたっていたという故事から『腹を鼓(こ)し壌(つち)を撃(う)つ』。鼓腹撃壌とは太平の世である言葉として使われることがある。
これを行うには、君主はいろいろな制度を立てない、法律を定めない、そして自然にわいてくる人民のカを、なるベくそがないようにする。人為を少なくする、無為自然に持っていく。すると世の中は治まってくる、という考え方である。
世の中にとって一番害悪なものは善人
悪人、たとえば犯罪者、泥棒など大したことはない。強盗、殺人なんてたかだか一人か二人殺すか、財産を少し持っていくだけだ。ところが、善人というのは、自分が善(正義)であると信じ込んでいて、それが国家形態にまで及ぶと大変なことになる。自分は善(正義)と信じた善人と善人がぶつかって戦争が起き、何百万人もの人が死ぬ……これはもはや一人や二人殺した殺人者の比ではない。それぞれの善の形態が違うその器と器がぶつかるから大惨事になってしまう。そこで無為自然という考え方が重要になってくる。
へルマン・ヘッセは「われわれは禅などの東洋の仏教思想を今こそ受け入れなければ危ない」と言っている。東洋の思想の中にある根本的なものは、この無の考え、空の考え方。それは仏教思想を貫いている『空』、般若心経の『空』と全く同じもの。
ピーターの法則
「組織において人はおのおのその無能レベルまで昇進する」。ということは、「組織はいつかすべて無能な人々の集団となる」。だから、賢いはずの人々の集団が考えられないようなヘマをしでかす。無能レベルの手前で踏みとどまろう。そうすれば誰もが有能でいられる。
[出典:ピーターの法則――「階層社会学」が暴く会社に無能があふれる理由]
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人間の成功とか出世という問題について考えてみたとき、
「いかなる人間も、人生の階級的社会を昇っていく時に、ある階段で必ず無能レベルに達する」という。
つまりわれわれはその無能レベルに達することから逃れることができないとうことである。
われわれの心の中には『服従と支配』という二つの対人的あるいは階級に対しての態度・心構えがある。われわれは最初、服従型を強いられる。そしてそれは美徳なのである。
たとえば企業が要求することは、能力とかアイデアではなく歯車の一部として働くこと、それは『服従』。個性を発揮し、能力を発揮することは許されない世界、有能者は要らない、従順な者だけが生き残れる世界。
ところが、昇進というステップを昇っていくと、従順に服従していればよかったものが今度は支配管理する側になることが要求される。しかし長い間の服従期間になされた教育(洗脳)や、自ら蓄積してきた情報、思考信念信条のようなものが頑固に基礎を固めているために、服従モードから支配者モードに切り替えることなど一朝一夕にできるものではない。だから管理職になると、被害妄想になったり、精神を病んだりしてとだんだんおかしくなる、あるいは管理職として務まらず、果ては無難な部署へ回され窓際族となる、といった『企業あるある』は、こういった背景・理由がある。
このように、無能レベルに達した人は、それより上へ行くことはできなくなる。それは老子のいう器:服従型というのが器になってしまったからである。だからといって支配型のメンタルで新入社員として入っても、階段を昇る前に無能レベルに達してしまうからすぐにはじき出されてしまう。だから、時と場所と状況(TPO)に応じて自分が変わらないといけない、毎日、毎時、毎分変わらなければならない。
王陽明の悟り
権は能く物を軽重すれども、而も自ら其の軽重を定むること能わず。
度は能く物を長短すれども、而も自ら其の長短を度(はか)ること能わず。
心は則ち能く物を是非して、而も又自ら其の是非を知る。
是れ至霊たる所以なる歟(か)。
秤(権)はよく物の軽い重い(重さ)をはかることができるが、自分の重さをはかることはできない。
物指(度)は物の長い短い(長さ)をはかることができるが、自分の長さをはかることはできない。
しかるに、人の心は権や度とは異なって、外物の是非・善悪を定めることができて、その上に自分の心の是非・善悪を知ることができる。これが心をもってこの上もなく霊妙なるものとする所以ではなかろうか。
人はモノと違って、自分自身を客観的に見つめることのできる心・思考があるからこそ、自身ですべての問題解決が可能になる。ところが多くの人は、その思考の中に自分自身が耽溺している、自分自身が物差や秤になってしまっている。『撲』でなく、『器』になっている。だから『撲』にならなければならない。
奥深い明知
第三十六章微明
將欲歙之。必固張之。
將欲弱之。必固強之。
將欲廢之。必固興之。
將欲奪之。必固與之。
是謂微明。
柔弱勝剛強。魚不可脱於淵。
國之利器。不可以示人。
将(まさ)にこれを歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張れ。
将にこれを弱めんと欲すれば、必ず固くこれを強くせよ。
将にこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興せ。
将にこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれに与えよ。
これを微明(びめい)と謂(い)う。
柔弱(じゅうじゃく)は剛強(ごうきょう)に勝つ。
魚は淵(ふち)より脱すべからず。
国の利器(りき)は、以(も)って人に示すべからず。
縮めてやろうとするならば、かならずしばらく拡張してやれ。弱めてやろうとするならば、かならずしばらく強めてやれ。廃してやろうとするならば、かならずしばらく挙げてやれ。奪ってやろうとするならば、かならずしばらく予えてやれ。これを奥深い明知という。柔弱なるものは剛強なるものに勝つ。
魚は淵から離れてはいけないが、国の鋭い切れ味の統治法も人民に示してはいけない。
[出典:「老子」岩波文庫:蜂谷邦夫訳注]
仁義だとか虚偽だとか孝子とか慈父とか忠臣とか……こういったものは結局、世間的な偽りの道徳だと老子は言う。
老子は知恵を全く認めない。無知無欲の方がいいのだ、それが明知なんだと。
知恵が働くようになってから、虚偽が蔓延るようになった。
家族が不和になってから、ドラマでしか見れらないような孝行息子とか優しいパパが出てくるようになった。(結局虚構の家族なのだが)
世間を大いに騒がせた某教団では、教祖家庭を『真の家庭』と標榜し、自らを『真の父母』などと自称していたが、結局教祖には妾が何人もいたり息子が麻薬中毒で妻に暴力をふるったり……教祖の死後は財産・後継者に関する骨肉の争いに発展し、母子間の争い、果ては未亡人が夫(教祖)の考えた教義を否定したりと、標本のような偽家族ぶりを見せつけられている。まさしく老子のいう、全く心の繋がりのない家族そのものである。
そんなドラマになるような偽家族でなくても、そんな家庭は巷に溢れている。
たとえば親の敷いたレールに乗せられて、親の期待に応えられるような良い子として育てられてきた子どもたち……親殺し……子殺し……毒親……親ガチャ……
『家庭が不和』というのはすなわち『虚構の家庭』であり、そうすると形ばかりの孝子、慈父が出てくる。
『国家が混乱』といっても、決して戦争が起こっているわけではない。『虚構の家庭』の延長にある国家と考えれば理解しやすい。内面が虚構だらけな国家が平和でるはずがない、今現在戦争が起きてなくても、もう既に国家は混乱しているのだ、と老子はいう。
老子的生き方
第二十章:異俗
絶學無憂。
唯之與阿。相去幾何。
善之與惡。相去何若。
人之所畏。不可不畏。
荒兮其未央哉。衆人煕煕。
如享太牢。如春登臺。
我獨泊兮其未兆。如嬰兒之未孩。
イ纍イ纍兮若無所歸。衆人皆有餘。
而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。
俗人昭昭。我獨昏昏。
俗人察察。我獨悶悶。
澹兮其若海。飂兮若無止。
衆人皆有以。而我獨頑以鄙。
我獨異於人而貴食母。
学を絶てば憂いなし。
唯(い)と阿(あ)と相い去ること幾何(いくばく)ぞ。
善と悪と相去ること何若(いかん)ぞ。
人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからざるも、
荒(こう)としてそれ未だ央(つ)きざるかな。衆人は煕煕(きき)として、
太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春に台(うてな)に登るが如し。
我れは独り怕(はく)としてそれ未だ兆(きざ)さず、
嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如し。
儽儽(るいるい)として帰(き)する所なきが如し。
衆人はみな余り有るに、而(しか)るに我れは独り遺(うしな)えるが如し。
我れは愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。
俗人は昭昭(しょうしょう)たり、我れは独り昏昏(こんこん)たり。
俗人は察察(さつさつ)たり、我れは独り悶悶(もんもん)たり。
澹(たん)としてそれ海の如く、飂(りゅう)として止(とど)まるなきが如し。
衆人はみな以(もち)うる有り、而るに我れは独り頑(かたくな)にして鄙(ひ)なり。
我れは独り人に異なり、而して母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。
「学を絶てば憂いなし」と、人生を理論や理屈で一律に割りきることの愚を指摘する老子は、完成されたもの、形の整ったものも信用しない。それは人為の加わったもので”自然”の状態とは言えない、と考えるのである。
したがって、完成した人間も認めない。《完成品は欠けて見え、
使ってみればきりがない。
満ちてるものは空に見え、
使ってみれば無限である。
まっすぐは曲がって見え、
上手なものは下手のよう
雄弁は口下手で、
豊かなものは不足のよう。
騒ぐと寒さに勝つけれど、
静かはそのうえ暑さにも勝つ。
じっと静かにしていれば、
天下の長となるものだ》もともと中国には、完全をよしとしない考え方がある。「書経」には、
「満は損を招き、謙は益を受く」
といっているし、『易経』にも、
「亢龍悔いあり(上りつめると悔がある)」
と述べている。これに対し老子は、
「天網恢々疎にして失わず(天の網は広く大きく、目は粗いが取り逃すことはない)」
というふうに、一見不完全なように見えるものがかえって完全なのである、という発想を示すのである。懐石料理というものは、まことによく老子の道を心得たものといえよう。つぎつぎと出てくる料理はほんのわずかなので、おなかはいつも足りないままである。そうして最後までおいしく、足りなめに食べているうちに、いつの間にか満腹している。つねに可能性を控えているのである。-中略-
いたずらに感覚器官の奴隸になるな
老子は、人間は自然のエネルギーを受けて生まれたのであるから、本来、神秘な能力を備えていると考える。たましいと肉体が一体化した不思議な生物である。本来、柔らかくて、しかも元気盛んである。心に曇りがなければ、政治や社会生活も純粋無心である。自然の神秘に通じる能力を持っていて、そこからエネルギーをどしどし吸収する。世の中がよくわかる能力を持っていても、その才能をひけらかさない。そういう人間の本質を保っている人には、私心が起こってこないというのである。それでば、老子自身はどのように生きているのだろうか。
《学を棄てれば悩みはない。
ハイとコラとどう違う。
善と悪とどう違う。
恐れられれば恐るべし。
世は、ぼうとしてきわめ尽くせぬ。
人はニコニコご馳走で、
春に台に登るよう。
私はシンと静まって、
笑いを知らぬ赤子のよう。
よろよろよろと、すみかもない。
人は物知り、ゆとりあり、
私は忘れて馬鹿のよう。
俗人はりこうぶり、私はひとり暗いまま。
俗人はよくわかり、私だけはわからない。
ぽかんとして海のよう。
ぼやっとして宿もない。
皆はやる気じゅうぶんで、
私ひとりはがんこもの。
私は人と異なって、
母さんの乳をしゃぶってる》学問を捨て、世の中のいろいろなことに迷わされず、自然のままに生きていれば悩みはない。世間の人はあくせく営みをしているが、自分だけは馬鹿のように自然のふところに抱かれて、そのオッパィをしゃぶっているということである。
人間は、本来神秘な力を持っていた。老子はじっとしていて、その力を取り戻そうとしているのである。だから、いたずらに感覚器官の奴隸、すなわち欲望の虜にならないように心掛けるよう、力説するのである。
[出典:「老子の読み方」月洞譲/祥伝社]
老子的生き方とは、波立つ心を静め自然と同化し自身を生かそうとする、まさに瞑想的生き方である。