白隠禅師のエピソードがすご過ぎてあたまが軟酥の法!【朗読】

叡智

白隠禅師(はくいんぜんじ)白隠慧鶴(はくいんえかく)白隠さん

貞享(じょうきょう)2年12月25日(新暦:1686年1月19日)
駿河国原宿(するがのくにはらじゅく:現在の静岡県沼津市原)にて、長沢家の三男として誕生、岩次郎と名付けられた。

15歳の時、原の松蔭寺(しょういんじ)で出家、慧鶴(えかく)と名づけられた。
19歳より諸国行脚の修行。
24歳で鐘の音を聞いて見性体験(けんしょうたいけん)するも、信濃(長野県)飯山の正受老人(しょうじゅろうじん)こと道鏡慧端(どうきょうえたん)に、あなぐら禅坊主と厳しく指弾されたことから、その指導を受けて猛修行に励み、老婆に箒で叩き回されて次の階梯の悟りを得る。

26歳で、禅修行のやり過ぎで禅病(神経衰弱)となるも、白幽子(はくゆうし)という仙人より「内観の秘法」を授かって回復した。
この経験から、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。他にも「軟酥の法(なんそのほう)」を教授している。

34歳で妙心寺第一座となる。更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成した。

50代以降は、全国諸寺で積極的に禅の講義を行う。また、公案体系をを完成させる。

坐禅とは縁遠い一般大衆に向けた啓蒙にも積極的で、書画をよく描き、和文の坐禅和賛(ざぜんわさん)・仮名法語(かなほうご)を著すなど、禅の普及に努めた。

地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗(おうばくしゅう)と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。

現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、白隠の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。

明和5年12月11日(新暦:1769年1月18日)84歳で遷化(せんげ)
明和6年6月8日、御桜町天皇(ごさくらまちてんのう)より神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)の諡号(しごう)を、明治17年(1884年)には明治天皇より正宗国師(しょうしゅうこくし)の諡号を賜った。

現在、墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、白隠の描いた禅画も多数保存されている。

白隠禅師の超絶エピソード

松蔭寺の門前に棲んでいた、財産家の信者の娘さんが、ふとしたことで妊娠してしまいました。

信仰のあつい父からは、だれの子か、だれの子かとはげしく聞きただされましたが、はずかしくていえません。

父があまりせめるので、おそろしくなり「白隠さんのこどもです」と答えて、父の怒りからのがれようとしました。

つね日ごろ、禅師の大崇拝者であった父は、それを聞いて、だまってしまいました。父はその後、一言も娘にものをいいません。

やがて、月みちて子どもがうまれるやいなや、子どもを娘の胸から引きちぎり、松蔭寺を訪ね、泣きさけぷこどもを禅師のまえに投げだして、

「お前は、えらい坊さんだ、とおもっていたが、とんでもない坊主だ。人の娘にこどもを産ますとは、なんたる生グサ坊主だ。さあこの子をひき取ってくれ、あきれた奴だ……」

と、あらゆる悪口をいって大声でののしってかえってゆきました。

禅師は、「ああ、そうだったのか」と泣きわめくこどもを抱えて飴で赤子をそだてはじめました。

この日は飴湯(あめゆ)や米の粉をといて与え、翌日からは村中を『もらい乳』して歩き回りました。
それまで、高僧・傑僧として尊敬されていた白隠禅師が、一転してとんでもない破戒僧と蔑まれることになりました。

それで、禅師の信用はすっかりなくなり、尊敬する人もいなくなり、信者も離れ、いままで大勢いた松蔭寺の弟子たちも、禅師をすててたち去ってゆきました。

そんな状況にあるにもかからわず、禅師はいつもとかわらず、勤めをおこない、赤子をだいて、村々を托鉢しながら悠々と『もらい乳』をして歩き、本当の親のように子どもを愛し育ててゆきます。

禅師の姿を見る人々のなかには、罵詈や、嘲笑をあびせかけ、石をなげたり、塩をまいたりする人もおりました。

ある雪のふる日のことでした。
いつものように禅師は赤子をだいて、軒々を托鉢してあるいていました。
その禅師のうしろ姿を窓からのぞいた赤子の母親は、母の情がおさえがたくもこみあげて、かつは、おのれの心の貧苦に耐えかねて、ワーッと泣きだして父のまえに、「あの子は白隠さんのこどもではないのです……」とほんとうのことをうち明けました。

父はビックリして、いそいで禅師のところへ走ってゆき、身の置きどころもないほどはじて、あやまりました。
禅師は、ただ一言「ああ、そうか。この子にも父があったのか」といってこどもを父に手わたしました。
ただ、それだけでした。

このことがあってから、禅師をしたう人がますますふえ、以前よりも多くの人が松蔭寺にあつまってまいりました。
禅師はなにもいわず、またなにごともなかったように、平常のとおり勤めをはたしていたそうです。

[出典:「白隠禅師」直木公彦著 日本教文社]

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