自他は一如
人間は誰でも、それぞれに悩みを持つものです。この時、自分の悩みは一時さておいて、他人の悩みをなんとか解いてあげたいと思い立つことが、菩提心(ぼだいしん)を起こすということなのです。
『人を助けるというは、人を助けるにあらず、実にわれを助けるの行なり』と、仏教には説かれています。
これは、どういうことなのでしょうか?多くの人の悩みとは、実はそのほとんどが自分についての悩みなのです。不眠症になった人で、他人の、例えばアフリカの飢餓に心を痛め、そのために夜も眠れなくなった人があるでしょうか?自分の未来を心配し、あるいは自分の過去の失敗を悔やんで、それを自分の悩みとし、眠れなくなるのです。
この自己中心的な思考を他人に振りむけた時にこそ、その人の心は休まるのです。
なぜなら、人間の心は「一時一考」という原理で働いているからです。その一瞬、考えているテーマは、ひとつだけなのです。同時に、悲しみと喜び、不平と感謝など考えることはできません。
「自分の悩み」を、その反対の「他人の喜び」に振り替えるのです。
この時、心は「悩みから喜びヘ」つまり「暗から明へ」 と変化するのです。心の中に明るさがともるのです。
「自らを燈し、火となし、世の一隅(いちぐう)を照らす光とせよ」とお釈迦さまはいわれました。
これがすなわち「ボサツ行」なのです。そして、このボサツ行を行なっている人が、他でもないボサツそのものなのです。
私たちは、ごく身近な人を喜ばす言葉を語っているでしょうか?人々に不快ではなく、好意的な微笑を送っているでしょうか。自分の家族や、仕事場の人々の表情が、なごむような言動をしているでしょうか?
「抜苦与楽の行」(ばっくよらくのぎょう)と仏教では、いいます。
人々の苦しみを和らげ、喜びの笑いをそこにもたらす者こそ、生きたボサツなのです。
およそ皆
わが意のままには
ならぬもの
それが他人とあきらむるべし
あきらめて
後より人を眺むれば
さてもよく見ゆ
人の情けが
今の意識を整える
未来の目標を目指し、それが達成された瞬間の喜びを想像した時、その喜びの思いを味わうとすれば、それは、過去に食べたまんじゅうの味の美味しさを思い出し、それを味わっているのと同じ状態であることがわかるではありませんか?
何もかもが現在の意識の流れにその作用を及ぼし、大きな影響を与えているのです。
そして、ここに最も重要なことがあります。
この現在の意識に与える影響を、かなりの程度まで自分でコントロールできるという事実です。
言い換えれば、未来の、あるいは過去のそれぞれの素材を想起する際、それを選択できるということです。
わたしたちは、過去の甘く楽しかった思い出にひたることもできますが、一方その反対に、いやな思い出、苦い記憶にさいなまれることもあります。
そしてありていにいうならば、圧倒的に多くの人は、後者の方を体験しがちなのです。
また人々は未来を夢見、その成功の思いにひたるよりも、なかなかそのための効果が上がらないことに焦りを覚え、いらいらとしたり、ときには、絶望感におちいったりしがちなものです。
この現在の意識に、何が最も強く浮かんでくるかによって考え方まで、左右されます。
しかし、その考える素材をわたしたちは選ぶことができるのです。
わたしたちは、失敗体験を思い出し、くよくよと後悔する代わりに成功体験を思い起こし、自らの尊厳を自分で高めることが可能です。
そして、それを行なえる人は、「常に幸福」なのです。
否定的思念、自分に限界を見出す考え、これらにとらわれている人こそ、不幸な人です。
反対に肯定的に人生をとらえ、無限の可能性を信じ、それを追求している人こそ、幸福な人です。
[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第379号 2016年7月号]
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