【無能唱元】唯心円成会伝法講義~会報Enjoh_201701

無能唱元

続・自分を観察する

そのための第一の方法は、まず、自分の思考状態を見張ることから始まります。
言い換えれば、自分が、今、何を考えているかを、あたかも第三者の目で見るように、観察することです。
この第三者的な目というのは、単に、他人の目というより、もっと深い意味を持っています。
一言でいうならば、誰にも味方しない者の目で、ということです。
相手でも、彼でも、そして私でもない、あらゆる人称がなくなった者の目で観察するのです。
すなわち、在ることを、在るがままに見るわけです。

例えば、ある人が、あなたを「嘘つき」だと非難したとします。そしたら、あなたは、「嘘つき」と言われた事実を、じっと観察するのです。この時、あなたは、その非難された原因がよく解らないまま、「私は至らない人間ですから、嘘つきでしょう」と言えば、あなたは非難した彼に味方しているのです。
それは、しばしば、謙遜という意識行為で、そうなります。
もし、あなたがムッとして、そんなはずはないと言えば、それは自分(私)に味方しているのです。

そこで、誰のサイドにも立たず、ただ事実だけを調べてみる。
すると、自分がかつて、彼に嘘を言ったことを思い出したとします。
つまり、あなたは、自分が嘘つきであることを発見したのです。

注意して欲しいのは、これは正直であろうとか、人間的に立派な態度であれ、とかいうことではありません。
ただ在ることを、在るがままに見たに過ぎないのです。

称賛も非難もなく、観察は、単なる「発見と理解」でなければなりません。

どうしても、嘘をついた覚えがなかったら「私は、よく調べたが、その事実を発見することはできなかった」で良いのです。要するに、それは、「意識内における真実在を見つけること」です。
そして「それを見つけること」が「サトル」ことに他ならない、と私は考えているのです。

さて、このようにして、例えば、自分が「嘘つき」であることを発見したとします。
この時、あなたは不思議な体験をします。それは、いささかも不愉快な気分になっていない、ということです。

これはなぜかというと、あなたは、誰の目でもない目をもって、自分の意識を見ているから、そこには、感情の波立ちが一切起こらない、ということなのです。

これは、心の状態が、静かな澄みきった湖のような状態であることを示します。この静けさこそ、悩みから解放された状態であり、この時あなたの中へは、生命エネルギーがどんどん注ぎ込まれているのです。

真実の自分

どの人称の者でもない目で見る、それを言い換えれば「あるがままに見る」ということですが、自分の意識の中に宿る、この無人称なる者を、臨済禅師は「真人(しんにん)」と呼んでおります。

この「真人」こそ、真実の自分であり、また宇宙創世の意識とつながっている意識でもあると言うのです。

人が、この真人の意識を体得する時をもって「彼は大悟を得た」というように表現されているのであります。

その大小を問わず、サトリ体験すると、スカーッと気分が良くなってきて、あたかも空が晴れ渡ってゆくような感覚を味わいます。これを、「意識の拡大」と申します。

人生というものは、それが物質によるものであれ、精神によるものであれ、結局は、この意識の拡大を求めて、生きているのではないでしょうか。

財を手にするのも、名声を得るのも、それによって意識の拡大を得るのです。
同様に、サトリを得ることも、意識の拡大による喜びを得ます。
つまり、それは物質的であるか、精神的であるかの違いに関係なく、共に意識の拡大という「幸福感」を求めている訳です。

意識が拡大している時は、楽しい時です。逆に楽しい時は、意識が拡大します。
だから私たちは、私たちに与えられたものに、楽しさを発見すれば、意識の拡大を得て、幸福感を味わえるのです。そして、人間は幸福である時、自然治癒力を増し、健康にもなり、長生きも出来るのです。

どんな小さなことにも、楽しさを見出した人に、幕末の歌人、橘曙覧(たちばなあけみ)という人がいます。天皇陛下が訪米の折、クリントン大統領が、スピーチに、この人の歌を引用して、一躍有名となりました。

たのしみは 朝起きいでて 昨日まで
無かりし花の咲ける見る時

身近に、どんな小さな楽しさでもいいから、それに気づき、取り上げ、大きな楽しさに変えましょう。

[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第853号 2017年01月号]

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