【無能唱元】唯心円成会伝法講義~会報Enjoh_201703

無能唱元

幸福とは?

ここで幸福というものについて考えてみましょう。

ラ・ロシュフコーというフランスの警句家は「幸福とは、ものそのものではなく、ものの味である」といっております。いうならばそれは感覚の問題であって、実体として存在するものではないということでしょう。

穏やかな春の陽光を浴びている人々の中でも、それを幸せだと感ずる人と、全然それについて顧慮しない人がいるように、幸福は陽光の側にあるのではなく、それを受け入れる心の側にあるのだということは明白に解ります。

この心という精神活動が起こるのは、皮膚に当たった陽光が暖かいという感覚によるものであることにご注意下さい。それは、食べ物を食べておいしいと感じた時、それは「味」であることと同じです。

幸福とはこれらの感覚と密接な関係があります。

否、幸福とは感覚自身だといっても過言ではありません。なぜなら、われわれが不幸感を覚えている時正に肉体的苦痛を覚えているからです。

ところで、ここでこの「感覚」というしろものに注意して戴きたい。すなわち、それは「現在においてのみ生じるもの」であることを知って戴きたいのです。感覚は、昨日もなく、明日にあるものでもなく、正に「現在のこの一瞬においてのみ生起する感覚現象」に過ぎないのです。

ところが、多くの人々は、幸福とは未来において存在し、それは追い求めることによって得られるもののように錯覚しております。未来における幸福は、「未来における自我」と同様に架空なるものです。といっても、私は未来における目標設定や理想などを無駄なもの、又は有害なものといっている訳では決してありません。

未来における成功とはいわばゴールであり、それへ向かっての努力はプロセス(道程)です。

大切なことは、ゴールにあるのではなく、むしろプロセスにあります。プロセスとはとりもなおさず「進行しつつある現在」のことです。

ところで、成功というゴールを目指して走っている人々は二種類あるのです。
その1は、成功を夢見て、楽しく充実した気持ちで、走っている人です。
その2は、苦しみで歯を喰いしばって走っている人です。

プロセスという現在上にある人々にも、また成功というゴールが同じであっても、その気分は幸福感の内にあるか、不幸感の内にあるかの二種類の人があるわけです。

もしその人のプロセスが充実したものになっているならば、成功という未来の幻想は、その人の現在を幸福にするための良き要因となります。

しかしその反対もあります。ゴールが現在を不幸にするための要因となることもあるのです。だから、人の幸不幸を左右するのは、ゴール自身ではなく、それへの途上にあることがよく解るでしょう。

プロセス上において、その人が不幸感を脱するためには二つの道しかないといえましょう。
その1つは、ゴールを放棄してしまうこと、つまり成功をあきらめてしまうことです。
その2は、現在の自己をよくコントロールして、その不幸感自身を幸福感の方ヘ転化してしまうことです。

しかし、このどちらかが常に絶対的に優っているとはいえません。この二者の選択はあくまでもケース・パイ・ケースによります。

時には成功をあきらめてしまう方が良い場合もあるし、時には自己変革をして、幸福感を感じられるようにしてしまうことが可能な場合もあります。

いずれにしても、人間の魅力とは「幸福感の中にある人」に、より多く存在します。これは明白な事実です。

不幸感の中にある人が他人を引きつけることはあっても、それは、同情という感情のもとに行なわれることにすぎません。

幸せは
明日には
あらで
たった今
目の前に在る
手の中に在る

[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第387号 2017年03月号]

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