真の平和とは/ありのままに見るということ(無能唱元)

無能唱元

ある雑誌の読者の投稿欄に、「わたしの好きな言葉」というタイトルで、次のような詩の一節が紹介されていました。
「人間は、歳月を重ねたから老いるのではなく、理想を失う時、老いるのである」
これは、サミュエル・ウールマンというアメリカ人の詩で、最近、日本人の間で評判になり、特に中高年者たちによって愛読されているといわれております。これは「青春」という題名の詩なのですが、この詩を読んだ年配者は、大いに力を与えられたといわれております。

さて、ここに出てきた「理想」という言葉に対して、私は次のように言及したいのです。
「人間の意識が、真に平和であるためには、あらゆる意味の『理想』というものが、そこに消滅していなければならない」と。
「理想」とは、現在のものではありません。これは誰にも解ることです。
そして、それは「永遠に未来にある」ものです。なぜなら、それへ到達したら、それは最早、理想ではなくなるからです。理想はこの意味で、見果てぬ夢であり、いわばそれは「幻想」です。

たしかに、我々は、この幻想を目指した時、ある種の興奮を覚え、心身は奮い立ちます。それで、人々はこれによって、生きる力を得たと思うのです。
私も、この生きる力を、この幻想を目指すことによって、時には多分に得られることを否定するものではありません。しかし、ここで私が指摘したいのは、それにしても、その時の心境は「平和なものではあり得ない」という点です。

真の意味における平和とは静寂の中にあります。あたかも静まり返った湖水の水面のようにさざ波ひとつ立たない、そんなふうな状態です。
瞑想中の人の脳波が、アルファー波というゆったりとした大きな波形であることは、こんにちではよく知られております。それに対して日常の生活の中では、脳波はベータ波という細かい波動を描くのです。より大きくゆるやかな波形は静まりゆく湖水の水面です。そして、より細かく動く波動は水面に生じた「さざ波」なのです。

理想とか、あるいは希望とかの、ある目的が未来に設定されると、我々はそれに向かって「努力」を開始します。そして、この努力こそ「湖水にさざ波を起こすもと」に他なりません。したがって、私は次のようにいいましょう。
「あらゆる理想や希望が消滅している心理的状態こそ、真実在としての平和な心境である」

そもそも理想と平和とは相反する関係にあるものです。理想とは、あることを求めることですが、平和とは「諦める」ことによって、即時にその場所で生ずるものだからなのです。
すなわち、理想は未来にあり、平和は現在にあるものなのです。
また、こうもいえます。理想は緊張を強い、平和はリラックスをもたらす、と。
故に、平和は決して未来にはありません。もし、それを未来において求めようとすれば、その平和は理想に変貌してしまうからなのです。

インドの哲人クリシュナムルティはいいました。
「諸君が、明日は平和になるだろう、といえば、その明日は永遠の明日であり、その平和は決して今日にはならないであろう」

第二次大戦では、日本人は三百万人以上が死んだといわれております。その時に歌われた軍歌には、次のような歌詞のものがありました。
「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう」
敗戦までの数年間の毎日、人は死につづけ、あきらかに平和はなかったのです。このように人は、明日の平和のために、現在の平和を犠牲にしてしまいます。

平和はたった今にしかありません。他の時間にあるものは、すべて虚構であり、幻想にしか過ぎないものです。

そして世界は常に平和のために戦っております。そして、かけがえのない現在の平和を失っているのです。これが、過去五千年にわたってくりかえされてきた人類の姿であり、この意味では、人間は全然進歩していないのだともいえましょう。

なぜ、人々は未来の平和(それは偽装された理想です)を得るために、現在の平和をなしにしようとするのでしょうか?考えてみると、まことに奇妙な話です。

そこでここで、もう一度くりかえしていいましょう。

「平和とは、理想が捨てられた瞬間、即時にその場において出現するもの」なのだと。
(P16-20)

楽する人:無能唱元(竹井出版/1992.04.27)

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