無能唱元

【無能唱元】人生最大の秘密

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私は最も語りたかったことを、ここに記した。

人の求めているもの

「人は何を求めているのでしょうか?」

この答えは、一見無数にあるように思えます。なにしろ、人の欲するものは、それぞれの人によって異なり、ある人は財産を、ある人は権力を、ある人は名声を求め、その希望を実現させることをもって、人生の生きがいとしているからです。

人が人生において求めているもの、それは人によって千差万別であるように思えます。それが、一般の人の普通の考え方です。

しかし、ここで私はこう言います。

「人が人生において求めているもの、それはたった一つのものなのです」

そして、世人のほとんどの人は、このことについて気づいておりません。このことを明らかにすることは、人生において、最も重要なことの一つなのですが、人々はこれについて、なお明らかにしていないので、仏教ではこれらの衆生を「無明の人」と呼んでいるのです。

ここで私は、きっぱりと断言しましょう。人生において、人の求めているもの、それは

「意識の拡大」なのです。

意識の拡大とは、「自己意識空間の拡大」と表現した方が解りやすいかも知れません。

これはどういう意味かというと、簡単にいえば、気分が広がることなのです。それは、あたかも、頭脳の中にある意識空間が一気に広がり、晴々れとした、また軽々とした気持ちになることです。

この反対が、「意識空間の縮小」です。それは、狭苦しく、重苦しい気持ちなのです。

言い換えれば、前者は「幸福感」であり、後者は「不幸感」です。

川端康成の小説「雪国」の冒頭は、「トンネルを出たら雪国だった」の言葉で始まります。この簡単な一行に意識拡大の瞬間の目のくらむような感動がこめられております。

暗く長いトンネルを抜け出た瞬間、広々とした白銀の世界が開けました。それまで、萎縮していた意識空間は、ここで一気に広がったのです。この時の晴れ晴れとした自由感は快感であり、そしてそれは「一瞬の幸福感」であるとも言えましょう。

昔、競馬場で、大穴が出た瞬間、観客席で狂ったように、「ワァーハッハッハッ」馬鹿笑いをしている男を見たことがあります。

恐らく、長い間、彼は賭け金をすり続けてきたのでしょう。後悔と不安と苛立ちの中で気分は萎縮し切っておりました。それが、大穴を取った瞬間、彼のその気分はまるでダイナマイトのように爆発したのです。

事業家は事業の拡大に途方もないほどの情熱を傾けます。そしてその拡大は疑いもなく、彼の内部の意識も拡大させるのです。

あらゆる組織のなかでの身分の昇進も、彼の優越心を満足させ、その満足感は彼の心を広々と快適にさせます。

性行為におけるエクスタシーの瞬間も意識空間の一気の増大であり、骨董収集家がかねてから求めていたものを入手した瞬間の喜びも同様でしょう。

何によらず、夢がかなった時の気分は、まるで「空に舞い上がるような気分」を人は体験し、そして、人はこの気分追及の手段として、大金を求めたり、権力を求めたり、異性を求めたりしているのです。

ですから、人は総じて、様々な目に見えるものを目的として、それを追及しているわけですが、じつはそれは目的ではなく、手段なのです。すなわち、意識空間の増大が真の目的であって、夢をかなえるという行為は、そのための手段なのです。

このことに気がついている人は、この世では非常に少なく、そのために苦悩の人生を送っている人は非常に多いのであります。

気が増大する

意識空間が広がるのは、そこに「気」が流れ込むからです。「気」とは生命エネルギーです。この「気」が流れ込むと、意識空間は風船玉のように拡大するのです。

気が少なくなると、意識空間は縮小します。神道ではこれを「気枯れ」と呼んでおります。

気落ち、落胆は、気が減ってきて、意識空間が縮小してきた状態であり、このような時は、表情も中央へしわが寄って収縮し、体も前にまがり、ちぢまってきます。

この反対が「破顔一笑」で、表情は大きく広がるのです。これは正に「心身は一如」であることを示しております。

十七世紀の頃より、科学は「目にみえるもの」と「目に見えない」ものの二つに分けられ、この二元論の発展が即文明の発達となってきたのですが、心と体を分けて考えるようになった結果、弊害も現われました。それは、目に見えないものに対し懐疑的になるあまり、その力の存在を無視する傾向が多くなったことです。

しかし、人は不安にさいなまれていると胃痛を覚えるように、心身は一つのものとして作用していることは疑いありません。

「気」とは、心と体の間をつないでいる「半物質的なもの」と考えることが出来ます。この気が増大したり、縮小したりするのは、それなりの訳があるからですが、その訳は一つだけではなく、幾つものケースがあるのです。

ですから、私たちは、その幾つかの訳を知る必要があります。

なぜなら、私たちの意識空間は、ほうっておくと、自然的に縮小してしまいやすいからなのです。こうして、人は不幸の人生を体験してゆくことになります。 私たちは、是非とも、この「気の増大と縮小」の訳を明らかにすることが大切です。そして、これこそが、すべての人間にとっての、「人生最大の秘密」なのであります。

満足度は常にしぼむ

ある三十代のキャリァウーマンが、私にこう言ったことがあります。

「どんなに欲しがっていたものでも、それがいったん手に入ってしまえば、その嬉しさはせいぜい一週間ですね。あとは、なれてしまって、特に嬉しさを覚えるということもありませんねえ」

なるほど、と私は思いました。何かを欲しがっていることは、ある種の緊張感が意識を締め付けており、その目的のものが手に入れば、その締め付けは無くなり、意識空間は一気に拡大するわけです。しかし、それは拡大しつづけているわけではなく、意識は再びしぼんでくるのです。

これは反対に考えればよく解ることです。人は悲しい目に遭うと、その悲しみを長く忘れません。しかし、時間の経過とともに、その痛みは薄らいでゆき、ついにはその悲しみが消え去るのです。これは、精神における一種の生理作用ともいうべきもので、この作用があるから、人間は生きていられるのです。

悲しみのようなマイナス感情がそうであるように、喜びのようなプラス感情も長持ちしません。どの様な満足感もやがては、しぼんでしまうのです。他人が見て、何不足ないような生活をしているような恵まれた人でも、常に不満感を持っていることがあるのはそのためです。

人間は、自分が体験したことに対し、それが「快なるもの」であれば、その「快」の持続を欲し、「不快なるもの」であれば、その「不快」の消滅を願うのです。しかし皮肉にも、とかく前者はすみやかに消滅し、後者はなかなか無くならない傾向があります。

晩秋のある日、私は大阪城を散策しました。裏手門に入り、大きな石垣の角を回った時、私は息を呑みました。巨大なハゼの木が、石垣の上から真紅の葉を広げて、一杯に石垣を覆っていたのです。それは鮮烈な赤で、何人もの人が、その前に釘付けになって、口々に賛嘆の言葉をもらしておりました。

彼等のその言葉を聞きながら、私は紅葉を観賞しつつ、ゆっくりと歩いて、つぎの角を回って、そこを立ち去ろうとした時、ハッと一つのことに気がついたのです。

それは、その紅葉がさっきほど美しくは感じていないという自分の意識のあり方にでした。つい数十秒前に感じたあの鮮烈な思いは、もうそこには無く、確かに美しくはあるが、平凡な紅葉があるだけだったのです。

私はこのことについて、暫くじっと考えました。まず、それは夕方で、灰色の石垣にそってずっと歩いて来たこと。そして、角を回った時、突然眼前に紅葉が出現したことなど。そして暫くしてその赤になれてきたこと。これらの事実を追ってみると、次の二つのことが明らかになります。

その一は、暗く灰色の石垣が視野にあった時は、やや意識空間が縮小していたのが、紅葉を見て一気に拡大したこと。そして、その二は、その驚きからさめると、再び意識は縮小し始めた、ということです。

「報酬減衰」の法則がそこに働いているからだ、と私は思いました。大阪城への散策は、明らかに意識の拡大を求めてのことで、紅葉を見た時のそれは、その報酬です。しかし、その喜びはすぐ衰えるのです。

あこがれの女性と結婚出来たような場合は、その喜びは段々とさめてゆくので、それは「報酬漸減のケース」と言えましょう。しかし、感激は紅葉の例のように一瞬にしてさめてしまう場合もあるのです。とは言っても、それは不快にまで意識空間が縮小したものではないことは勿論ですが。

ともあれ、ここで私たちが明らかにし得たことは、しぼまない満足というものは無い、ということです。

満足度と幸福度

ところで、ここで、多くの人は「満足と幸福」は同じもののように思っている点を指摘したいのです。

これは明らかに錯覚です。なぜなら、すでに最前明らかにしたように、満足とは一瞬一瞬がしぼんだり、ふくらんだりしているのですから、これでは、一瞬一瞬が幸福になったり、不幸になったりしてしまう連続となるからです。これではまるで、狼狽した人の顔色が赤くなったり青くなったりしているようなものです。ですから、満足イコール幸福と考えるのは間違っています。

では、私たちには、しぼまない満足というものが得られるのでしょうか? いや、そもそも、しぼまない満足感などというものが存在するのでしょうか?

もし無いとすれば、幸福とは一体どんなものなのでしょうか? また、どのようにして、その幸福とは体験できるものなのでしょうか?

人間の満足感は空間的か時間的かの二つのケースによって得られるものです。空間的というのは、他者と自分を比較し、自分のほうがより良いと感ずることです。時間的というのは、自分の過去のある時よりも現在の方がまさっていると思うことです。この二つの困った点は、前者の場合、自分の優越(これが満足感の正体です)を立証するためには、自分と比べて劣るものを必要とすることです。後者の場合は、過去の不満の時を必要としていることです。

もし、満足イコール幸福ならば、自分の幸福のためには、他人の不幸が必要ですし、(もしそうでなければ自分の幸福を感ずることが出来ない)また、過去が常に不幸でなければ、幸福も得られない、ということになってしまうからです。

換言すれば、人間の満足には、他者の不満足な状態を必要とし、また、過去の自分の不満足な状態を必要としていることです。

以上の点から理解されるのは、人間の求めている満足感とは、ひどく不安定なものだ、ということです。それはひとえに、他あるいは過去との比較のありかたにかかっているのであり、その方法のコントロールを間違えたら、その人は、ひどい不幸感に落ち入ってしまうものなのです。

ですから、優れた事業家は、その事業を目覚ましく発展させるでしょうが、彼には、殆どいつも満足感を味あうチャンスがありません。

ことを成すには、ハングリー精神が必要だ、と言う人もいます。私はそれに反対するものではありませんが、しかし、こういう人たちは、非常に大切なものを見失っているのです。

それは何かと言えば、「静かで、自由で、生き生きとした気分」ということです。この三つの気分がなぜ大切なのでしょうか? それは、われわれが、満足を目一杯に味あうためには、基本的に、精神は静かで、自由で、生き生きしている必要があるからです。

何によらず、われわれの意識が他の何ものかによって限定されている時、心(あるいは感受性)は決して、目一杯の快感を味あうことは出来ません。

意識空間の基本許容量

何かの拍子に心が沈んで、意識空間が縮小して行く時、それはゼロまで行ってしまう訳ではなく、どこかの地点でストップします。

言い換えれば、意識空間の最小値というものがあり、しかもそれは人によって大きな個人差があるのです。

仮に次のように考えてみましょう。
通常の意識空間内の広さは、五十立方センチだとしてみます。そして、なにかによって気枯れ現象がおこり、空間内の気が抜けて、空間は縮み始めます。しかし、それは、例えば、三十立法センチで止まり、それ以下には下がりません。もし、これがゼロまで下がれば、それは死を意味します。

しかし、この最小極限値が例えば五立法センチまで下がるとなると、これは鬱病状態を意味します。しかもこれは、自殺の危険性のある状態です。

最前も申しました通り、この最小極限値は人によっておおいに異なるのでありますが、これを仮に、意識空間の「基本許容量」と名付けてみます。勿論これははっきりとした固定的な数値があるわけではなく、時と場合によっては、普段、気分がおおらかな人でも大きく落ち込むことはあります。しかし、それにしても平均的なおおよその格差はあるものです。

Aさんは呑気な人で、仕事で失敗しても、「なあに、人生に失敗はつきものさ」と言って、意識空間の縮小は三十立法センチぐらいでストップしますが、Bさんは一寸とした失敗にもひどく気落ちがして、意識空間は一気に十五立法センチまで下落してしまうというように、各人の基本許容量はそれぞれに異なっております。

Bさんのように低い数値の基本許容量で、しかも頻繁にここまで意識空間が縮小するならば、明らかに彼は、「不幸な人」なのです。

次に、この反対に、意識空間の基本最大量というものについて考えてみましょう。

喜びに気分がわきたち、意識空間が拡大する場合も、あくまでそれは平均値としてですが、九十立法センチを越える人もいれば、もの喜びの少ない人で、よいことがあって喜んでも、それが、七十立法センチまでも行かない人もおります。九十立法を越す人が頻繁にその数値に達することがあったとしたら、疑いもなく、その人は「幸福の人」なのです。

そして、この最大と最小の中間が、その人の日常的幸福度だと考えると、すごく解りやすくなります。そこで、これを、意識空間の「基本平均量」と名付けます。

この基本平均量の大きい人こそ、俗に「器量人」とか「器の大きい人」とか呼ばれる人なのです。だいたいにおいて、このタイプの人は、社会的にも他人を抜きんでて成功していくものですが、それは、彼の意識空間が広く、そこに満ちている「気」が使われるからなのです。

基本平均量増大法

意識空間の基本平均量を増大させるものは、事業経営に専心したり、立身出世に進したりする、いわゆる外部的な成功などによってもたらされるものではありません。

すでに詳しく述べた通り、それらの努力は、いつも交替的に「一喜一憂」を生じさせるからです。

外部的な喜びの追及は、しばしば意識空間の拡大と縮小を目まぐるしく繰り返させます。ですから、それは、安定した意識空間の拡大には、つながらないのです。

安定した広い意識空間を得るためには、「平和な心境」というものが、まず必要なのです。それは、最前も申しました通り、「静かで、自由で、生き生きとした気分」のことです。外部的な喜びの追及は、拡大と縮小の目まぐるしい変化によって、かえってこの「平和の気分」を乱してしまうことが多いのです。

では、どのようにしたら、このような「心の平和」を得ることが出来るのでしょうか?

それを得るためには、まず、あなたの精神は「何ものからも自由」であらねばなりません。何ものからも自由であるということは、言い換えれば、「ひとりぼっち」ということです。自分以外の他の何ものにも所属せず、依頼せず、「自分ただひとり」でいるということです。

例えば、あなたがある人物を尊敬したり愛したりすることは一向差支えないのですが、その人物(過去の人を含めて)を信奉することは無いという意味です。

また、ある団体に所属し、行動はその規範にのっとっているとしても、内心は孤独であって、精神は自由に働いている、という意味です。

真の意味での「自由とは孤独」であるということではないでしょうか? 他との協調とは、(あくまでも精神内においてですが)その協調した分だけ、あなたは自由を失うのです。その分だけが、あなたの足枷になるのです。

お解りでしょうか?これは私の今言っていることで最も重要な部分なのです。人類の九十九パーセントは、このことを理解しておらず、その故に、この地上からは戦争などの悲惨さは一向減ろうとしていないのであります。人間社会の歴史を見れば、それは歴然として示されております。いつの時代にも、「平和を打ち立てるための戦い」を主張する愚かな人間は絶えないのです。彼等は興奮し、絶叫します。そして、その行為自体が彼等の心内は決して静寂でもなく、平和でもないことを示して
いるのです。

人は、ひとたび集団の一部となれば、(繰り返しますが、精神的な意味においてです)その精神の働きはにぶくなるのです。もっときっぱり言うならば、人は集団に埋没するならば、愚鈍となるのです。この集団とは、国家団体であれ、宗教団体であれ、政治団体であれ、すべて同じです。どのような団体であれ、その中で、人は自分の考えをある程度痛めて、その痛めた部分をもって、その団体の共同思想に合わせようとするのですから、その人の精神は決して自由ではいられません。

精神の自由

そして、ここが大切なところですが、「自由でなくなった分だけ」意識空間はせばまるのです。窮屈な感じは段々強まり、気枯れによって、その人の心はいらいらとしてきます。したがって、その人は攻撃的にならざるを得ません。攻撃することで、気分が晴れるような気がするからです。あらゆる団体が大きく成熟すると、例外なく他者攻撃的になるのは、こういう理由からなのです。

また団体内で内紛を起こし、闘争や分裂を生じるのも、同じく、各人の意識空間の縮小による結果なのです。

では、精神が自由と平和の内に働くようにするためには、私たちは、どのようにすれば良いのでしょうか?

それは、次のようにすれば良いのです。

まず、感覚が認識した事象、あるいは、心内に生じた思いを、「じっと見ること」なのです。そこには、いかなる批判を加えずに、ただ見て、それを理解すること。

たとえば、自分がある人に対し、避けたいと思っているならば、なぜだろうと、心内のそれを直視してみる。
すると即座に、自分は昨日、彼に嫉妬の感情を覚え、それを思い出したくないからだ、ということが理解される、といったふうにです。そして、それを直視し、理解している間は、それは良いことだとか、悪いことだとかの意見は決してまぎれ込ませないようにするのです。意見は感情をともない、心に波立ちを生じさせ、したがって、観察者(つまり、あなた)の冷静さは破壊されてしまうからです。

このように、自分の意識の動きを、第三者の目をもって、いかなる批判も加えずに、じっと見つめ、次々とその意味を理解していく時、その当事者の心は完全に解放されており、心は「自由で生き生きと働いている」のであります。

こういう心の働きについて、おそらく歴史上初めて説明してくれたのは、今世紀最大の哲学者であろう、インドのクリシュナムルティでした。

このように、いわば、自我をはなれて、自我そのものを含むすべてを注意深く観察することを、クリシュナムルティは、これが「真の瞑想」である、としたのです。

そして、ヨガや座禅のように、ある姿勢を固定し、呼吸術などの方法を規定したような瞑想法などは、真実としての瞑想ではない、と言い切っているのです。これはまた、常識に対する、まことに激しい断言的意見であります。

実際のところ、究極的には、私はこのクリシュナムルティに賛同するのではありますが、ただ、今までの常識概念の中に生きてきた世の普通の人々には、なかなか理解しがたいのは事実です。

またそれは、理解しがたいだけではなく、それに反感を覚えたり、または、それを実行しようとしているうちに、気分が落ち込んでゆき、意識空間の縮小が起きてしまうことが、ままあることも事実なのです。

これはなぜかと申しますと、「自我をはなれる」ということは、いわゆる「人間的欲望から解放された状態」であり、これが、金銭や名誉などを求める欲望を否定するように思えるからです。また事実、クリシュナムルティは、物質的成功を目指す実業家に対する否定的な意見を時折述べております。

簡単に言いますと、クリシュナムルティの「見つめ、理解する」という方法では、「悟りを得る前に、がっかりしてしまう」のです。今までの実績がそれを証明しております。彼の教説に接した圧倒的多数の人々が、彼を理解し得ず、ほんの一握りの人だけが理解出来たことがそれだと思います。

瞑想と欲望の合間で

そこで、私は次のように考えたのです。
クリシュナムルティが、「見つめ、理解する」を、真の瞑想とするならば、それはそれで良いではないか。そして、日常生活の中へ、夢を追う時間と、瞑想する時間を混ぜてゆけば良いのではないか、と思い至ったのであります。

すなわち、日常にあって、夢を追い、欲望をかなえようとします。この間において、意識空間が拡大しているか、あるいは基本平均量を保っている時は、そのままその生活を続けていて構わない。

しかし、いったん何かのつまづきなどで、意識空間が縮小を始めたなら、ただちに「見つめ、理解する」という真なる瞑想に入る。そして、「静寂にして自由なる心境」に暫く住する。

すると、そのリラックスの中に、生命エネルギーは、生命の恒常性原理をもって自動的に湧き出してくる。生命エネルギーはすなわち「気」であるから、この気によって、意識空間の縮小はストップする。そうしたら、再び、人間的欲望を追う世界へもどれば良い、と以上のように考えたのであります。

このようにして、欲望と瞑想の間を、うまく二辺往来するならば、意識空間の基本平均量は高位を保ち、しかも、折々の欲望達成によって、一気の意識拡大を体験しその人は、大きな満足感を覚えることが出来るのです。

真実としての意識拡大

さて、皆さんは、これまでに、「幸福、すなわち人間の求めているものは、究極的には、意識の拡大に他ならない」という人生の秘密を解明し得たのではありますが、実は、これでは未だ答えが不完全なのです。

それは、真実在としての喜びは、「単なる意識の拡大ではない」からであります。

単なる意識拡大とは何でしょうか?

例えばそれは、酒を飲んで酔うことです。大金を儲けることです。ジョギング中に心臓負担が極限にまで達した時、その生体を救うために大脳から麻薬物質エンドルフィンが、どっと噴出された時です。競馬の大穴が的中した時です。性行為で気分が昇天した時です。

これらの意識拡大の特徴は、非常に刹那的なものであり、しばしばそれは、覚めた後、何となく嫌悪感さえ感じさせられることがあります。

「面白うてやがて淋しき祭りかな」という古い俳句も、そのへんの心境を現わしたものでしょう。

このような、単なる意識拡大ではなく、新実在としての意識拡大という瞬間があります。
それは、意識する機能そのものが「進化したことを自覚した瞬間」なのです。もっとひらたく言えば、新しき知恵を得て、今までの自分より、一段と進歩したという自覚を得た瞬間、その喜びで意識空間は一気に拡大するのです。

この時、自己は日常的な自我から解説し、大空の高みから地上のすべてを見下ろすような鳥かん図的な展望が得られます。

ですから、この場合、意識拡大は直接の目的ではなく、新しき知恵を得た結果、いわば副産物的報酬として、もたらされるものなのです。そして、新しき知恵を得た喜びは、それ以後の彼の人生の一部となりなす。それは、彼の向上であり、進化であり、それを得たあとは、その自信を意味する喜びは、容易には衰退しないものとなるからです。したがって、それにともなっての意識拡大も、よく持続するのであります。

人間の進化とは、頭脳の発達でもあります。それは、人間の頭脳を猿のそれと比べてみれば、すぐ解ることです。すなわち、我々は、頭脳の発達段階にある時、一言にして言い切れば、「幸福」なのです。

かくて、我々に宿命的に所属する、「自己重要感」と「好奇心」は、進化に付随した人間的欲望であることが理解されます。好奇心は新しい情報を入手し、それを理解した瞬間、彼の自己重要感は充足されるからです。

自己欲望を支配する

「自己重要感」も「好奇心」も、そして更に「物欲」も、それは、すでに人間に備わっているものです。そして、それは本来、良いものでもなく、悪いものでもありません。あるがままのそれを見れば、それはすぐ解ることです。それなのに、人々は、それらの欲望を、ある人は「悪」であるとし、他のある人は「善」だとするのです。

しかし、その二つはいずれも、自分の好みで、二元対立のどちらかに偏っているのです。

ただ、「自己重要感」も他のすべての欲望も、そのコントロールを誤ると、悲惨な状況を発生させてしまうのです。

例えば、ある人はおカネは汚いと言います。これは当然誤りです。金属や紙で出来ているそれ自体に、綺麗も汚いもありません。ただそれを用いる人間の心が卑劣であったり、嘘つきであったりするので、おカネに目がくらんでそうなった、と責任を自分以外の他のものに転嫁しようとしているだけなのです。

このように、人間の欲望は、般若心経にもある通り、本来それは、「不垢不浄」(汚くもなく、綺麗でもない)のであります。

したがって、人間にある「進化の欲望」は正に、善悪の範疇の外にあるものであり、それは、しばしば「自己重要感」の充足欲望をもって表わされるのです。

この「自己重要感」の取扱いをうまく出来ないために、地球上の殆どの人が、悩み苦しんでいるのが、人類の歴史五千年間の姿なのです。

この「自己重要感」を含め、人間が有するあらゆる欲望に振り回されないようにするには、我々は一体どのようにしたら良いのでしょうか?

欲望そのものを消滅させることでしょうか?

「否」と私は答えましょう。それは無理です。なぜなら、生きること自身が、欲望の具現化である、と私は考えるからです。欲望を滅しようという戦いは、自己への戦いであり、その戦いは、決して、その人の心に安らぎをもたらすことはないでしょう。

真実在としての平和とは、完全な意味での静寂の内にあるものです。それは、在るものを在るがままに見ている時に生ずる状態です。そこでは、あらゆる戦いは休止しています。
ところが、克己も戦いです。それは、自己に打ち勝とうとする戦いですから、当然そこには平和はありません。

ところで、我々が、真に第三者の目をもって、自己の欲望の動きを観察している時、その意識は絶対的静寂の中で活動しております。

「欲望の動き」すなわちそれは「自我」です。我々は、この自我の外へ出て、外側から、自我を含めたすべてを見ている時においてのみ、真実在としての「平和」の境地に在るのです。

そして、ここが肝心のところですが、この平和の中に在る時、人は最早自分の自己重要感に振り回されないで済むようになっているのであります。換言すれば、この時初めて、人は自己重要感を支配することが出来るようになるのです。

これが、「在るがままに受け入れる」と言うことなのです。そこには、あらゆる努力も反省もなく、したがって、あらゆる何かに対しての戦いもありません。

そして、前述した通り、これこそが「真の瞑想」なのです。

真の瞑想の中にある時、そこには、自己重要感の飢餓感はありません。なぜかと言うと、見つめている自分の意識は、いわば他人事であるからなのです。

このようにして、我々は欲望の強制力から解放され、自由を得ることが出来るのです。

進化による意識拡大

しかもこの時、知らずして最も自然に、彼の「自己重要感」は大きく充足されているのであります。

それは、他の一切との分別比較を必要とせず、自然に進化の道程を進んで、気は大量に内部に充足され、意識は拡大しつつあるのです。

皆さん。
これこそが、人生最大の秘密なのです。人の求めていること、それは「幸福な生き方」であり、その答えとは、「進化による意識拡大」にこそあるのです。

そしてそれは、「真の意味の瞑想」によって得られるものなのであります。

 

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