無能唱元

【無能唱元】唯心円成会伝法講義~会報Enjoh_201704

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真なる自己とは?

私は「自我」について説明する時、しばしば、それを「真なる自己」と区別、あるいは対応させて説明することがあります。

臨済禅師が言った「一無位の真人(いちむいのしんにん)」を現代語にすれば、「真なる自己」と言ってもいいでしょう。

「真なる自己」それは簡単に言えば「私」ということに他なりません。ではこの「私」とは何でしょうか?

「私」とは、「私という意識」に過ぎません。肉体は「私という意識」の借り物です。ましてや、あらゆる所有物は、生ある間の借り物であることは自明の理です。

「私という意識」は、この借り物を出現させ、これを現世色界としているのです。出現させたのは、自分の肉体だけではありません。実に自分を取り巻く宇宙のすべてをも出現させたのです。
ですから、「私という意識」は同時に「宇宙創生の意識」でもあるのです。

この意識は、すべての色界を目的格にしている主格体であるゆえに、自分自身を目的格として見る事が出来ないのです。私たちは自分の本当の顔を決して見る事は出来ません。ただ鏡に写して、こんなものか、と知るだけです。

ところで、「自我」はこの鏡の役目を果たすものではあるまいか、と私は思うのです。
私たちは、自分の意識の中に「自我の働き」を発見した時、その「自我」を鏡に写った自分を見ているように、それを見ている「真なる自己」があることを知ることが出来るのです。

これは、それを目的として把握し得たのではなく、自己が自己に目覚めたものだと言えるのではないでしょうか?

ここで私は突然、かの有名なデカルトの「我思うゆえに我あり」の言葉への疑問が氷解したのです。

すなわち「思う我」とは「自我」であり、この「自我の働き」を見ているのが「真我」なのだと…。

見ている行為があるのなら、その行為者がなくてはならないはずです。
すなわち、その行為者は「真なる自己」です。

一つの発見がありました。
これはめでたい、デッカンショ!
(註・ご存知の方が多いと思いますが、デッカンショは、デカルト、カント、ショウペンハウ工ルの三人の哲学者の名前を合わせて作った囃し言葉です)

[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第388号 2017年04月号]

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