【無能唱元】唯心円成会伝法講義~会報Enjoh_201706

無能唱元

空観

空観とは「人生とは虚しいものじゃ」などと、虚無的な目をもって眺めることではありません。それは「相対する陰陽の二極を空じて観る」ということなのです。

人間は、物事に対応する時、きっと、善悪の判断基準を用いて考えます。この「善悪」が相対する「二極」なのです。ただ「善悪」のうち、どちらが陰であるか、あるいは陽であるかは、固定的に定まっているわけではありません。それは、時と場合によって、どちらへも変化します。

しかし、いずれにしても、人間は物事を、「善悪」あるいは「損得」あるいは「好き嫌い」に分けて考えます。そして、自分にとって、好ましいものを採用しようとするのです。

それでこのような考え方を、仏教の方では「分別智」と言います。また「人間智」とも言います。
現代的に言えば、「常識」のことと言っていいでしょう。

禅家では、「不思善悪(ふしぜんなく)」と言います。これは「空観」のことです。
「善とも思わず、悪とも思ってはならない」と言っているのです。これはいったい、どういうことを言っているのでしょうか?

そもそも「悩み」とは何でしょうか?
それは「二者の葛藤」と言っていいのではないでしょうか。すなわち、それは、「善と悪の葛藤」です。

しかし、この場合、ほとんど例外なく、選択される「善」は、その当事者にとっての都合のよいものが選ばれるのです。これを、江戸時代の禅僧、盤珪禅師は、「身贔屓(みびいき)」すなわち、我が身に愚属すると言っております。

ところが、その問題で、自分に相対する人物つまり相手の「善」も、その人にとっての身びいきがありますから、彼我の衝突が、ここに現れずにはいられなくなるのです。そして、この状態が高じていった時、「悩み」が起きてくるのです。その悩みとは、主として、「人間関係の不和」なのです。

これらの悩みが、その人にもたらす悪影響は、「生気エネルギー」が目減りするということです。「生気エネルギー」とは一口に言えば、「生命力」のことです。言い換えれば、命を支えている「気」のことです。

一切の元なる気、つまり「元気」です。この「気」は宇宙の彼方より、絶えず私たちの体の中に、そそぎ込まれているのであり、また、それがゆえにこそ、私たち人間は生きているのであります。

「悩み」は、この気が体内に流れ込んでくるのを阻止するのです。あたかも、水道の蛇口を細くしたように、気の出かたは、チョロチョロになってしまうのです。こうなると、体内の「気」は枯れてきます。

すると、まず気分が荒れてくるのです。そして、心は平常心を失ってゆき、体が病気がちになったり、運命には災難が生じてきたりするようになります。

このような危険な状態を脱して、安心立命の境地へ戻るには、どうしたらよいのでしょうか?

それは、「人間智」の働きを休ずれば良いのです。しばらくは、意識を「空観」の世界に遊ばせることです。
「空観」の空とは、「自我の滅した状態」と取ってもいいでしょう。

もっと易しく言えば「第三者の目で見るように」ということです。
あなたの意識が、ある問題に相対した時に、その善悪の判定を下したり、誰かを非難したり、また自己弁解したり、反省したりせずに、事実をありのままに、じっと直視し、観察し、その全体像を理解しようとするのです。

それが理解された時、その問題は解決されなくても、その問題自身が消滅し去ってしまうことがしばしばあります。

見逃してならないのは、この空観の意識状態にある間に、「生気エネルギー」がどんどん体内に注入されつつある、ということです。それは、自我の悩みがそこになきがゆえに、気の出口の蛇口が緩み、それが流れ出てきたからなのです。

こうして、元気が体内に充満して後、再び「人間智」の世界ヘ戻りましょう。すると、まことにスムーズに、自動的に、問題は片付いてゆくのであります。それを片付けてくれるのは、「気の力」です。

それで、この力を仏教の方では、「空性力(くうしようりき)」とも「仏性力(ぶっしょうりき)」とも呼んでいるのであります。

我々を力強く生かしているのは、まさにこの「仏性力」なのです。

何ごとも
我身の贔屓
無きならば
おのずとすべて
丸くおさまる

[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第390号 2017年06月号]

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