『他者依存を脱して』とは
世のほとんどの宗教は、「自分の限界と無力さを知り、神仏にすがり、そこに救いを求めよ」と言います。
「自分は赤児のように無垢になって、神を親のように思って、すがってゆけば、必ずそこに救いはある」と言う宗教もあります。そして「小さな自分を捨てるのだ」と説くのです。
この論には、誤解がいくつかあります。
その一は、『小さな自分』というのが、『自我意識』と『真実の自分』とを混同してしまっているという点です。
そのニは、赤児を最上の人格として、そのような人間になることを理想としていることです。
確かに、赤ん坊は無邪気ではありますが、同時に無知でもあるのです。
その三は、人間は、本性的に、進化する喜びを求めているのであって、ただ生きていればよいだけでは、気枯れ人間になっていってしまうだろう、ということです。
これは、現実的には、『人間は自己実現の欲望』を持っている、と言われているところです。
その四に、人間は、対人的には、尊大であってはならないが、心の中では、自尊心を持たざるを得ず、これをなくすと、甚だしく、自分の生気エネルギーを失ってしまう、という点です。自尊心を持つこと。
これは、他者依存タイプの人と、よく出来ることではありません。ましてや、赤ん坊においてをやです。
釈迦は、これについて、素晴しい言葉を残しました。
「天上天下唯我独尊」と。
もっとも、伝説によれば、釈迦は生まれた途端に立ち上がって、両手の指で天と地を差し示しこの言葉を唱えた、と言われておりますけれど。これは釈迦をたたえて、神格化するために生じた創作でしょう。
すべての人間は、程度の差こそあれ、その意識は、『色界』と『空界』の両方を行き来して生きているのであり、その片方だけでは生きられません。そして、その意識をコントロールするのは他の誰でもない、『真実の自己』である貴方なのです。すなわち、貴方の心の主人は貴方自身なので、あります。
もし、この主人の座を、他人にゆずり渡してしまったら、即、貴方は心の自由を失ってしまうのです。そして、いったん、この自由を失うと、般若からのエネルギーも受け取れなくなってしまうのであります。
そこで、そのことについて、たわむれに書いた私の短歌に、次のようなものがあります。
バイブルも
論語も経も
マルクスも
ヨガも座禅も
みな松葉杖
決然と
松葉杖をば放擲し
宇宙の中に
われ一人立たんキリストも
孔子も釈迦も
皆他人
ほんとの俺は
この俺さまじゃ
おのれをば
救うはおのれの他になし
神も仏も
みなまぼろしじゃ
俺さまも
いばってみたが
その実は
ビクビクしながら
生きているのじゃ
確かに、何にも依存せず、未知の未来へ向かつて、独り歩いて行くことは心細いことです。
しかし、自分の足で、この天地の間を堂々と歩いて行くのは、なんと清々とした良い気分でしょうか。
これこそ生きがいある人生というものじゃないでしょうか。
[出典:唯心円成会発行.会報Enjoh 第383号 2016年11月号]
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