【ざっくり解説】量子論・量子力学 基礎・入門

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量子論・量子力学 入門

トマス・ヤングは、二重スリットを使った実験で光の干渉縞をつくりだすことに成功しました。
干渉は波特有の性質ですので、この実験結果によって、科学者の間では[光=波]という見方が“常識”として定着していきます。
[出典:みるみる理解できる量子論(Newton別冊サイエンステキストシリーズ) ]

光量子仮説

光を波として考えれば、暗い光は振幅が小さく、明るい光は振幅が大きいはずです。
このことから考えると、ある条件で光電効果がおきなくても、光を明るくすれば(振幅を大きくすれば)、電子がもらうエネルギーは大きくなり、光電効果がおきるはずです。
しかし以上の予測は実験結果と合いません。
光を単純な波と考えていては、光電効果を説明できないのです。
[出典:みるみる理解できる量子論(Newton別冊サイエンステキストシリーズ) ]

この現象は、光がE=hνのエネルギーを持つ粒子であると考えるとよく説明できます。光の波長を短くするほどE=hνの関係によって光のエネルギーは大きくなるので、光子1個が電子1個に与えるエネルギーも大きくなっていきます。
※E=hv E:エネルギー/h:プランク定数/v(ニュー):振動数
波長を固定して光の照射強度を強くした場合は、波長を変えたわけではないので、光子1個が電子1個に与えるエネルギーは変わらず、飛び出す電子のエネルギーも変わりません。
しかし光子の数が増えるので、エネルギーをもらう電子の数も増え、外に飛び出す電子の数は増えます。このように光電効果を説明できるのです。
アインシュタインの業績としては、一般には、相対性理論の方が有名ですが、1921年に贈られたノーベル賞は、この「光が粒子であるという説=光量子仮説」に贈られたものです。
[出典:高校数学でわかるシュレディンガー方程式/竹内淳]

二元論では解明できない光の世界

アインシュタインは、光の粒を「光量子」と呼びました。
しかし、完全に証明されたはずの、光の波としての性質は、どこへ消えていったのでしょう。
波説の決め手となったヤングの実験(波の干渉の実験)を光の粒一個ずつで行ったらどうなるのでしょうか。
光の粒による干渉実験では、光の粒は、しばらくは、雑然とした模様を描いていましたが、時間が経つと干渉の縞模様を浮かび上がらせました。干渉し合うはずのない一つずつの粒が、多数集まると、波特有の現象を示したのです。
⇒粒:一つが、ここにあれば、他にはないもの。
⇒波:広がりを持ち、一つの場所には限定できないもの。
光は、粒子と波動の両方の性質を持つとしか考えようがないのです。

コペンハーゲン解釈

光の粒の動きは、量子力学が明らかにしたミクロの物質の基本的な性質をあらわしています。
光の粒は、一見でたらめなようでも、ある一定の傾向を持って動いています。
光の粒が、どのように動くかは、サイコロの目のように全く予測できません。
しかし、サイコロの目は、何度もふれば、6分の1の確率で出ることが予測できます。

この「確率」という考え方を、量子力学は、ミクロの世界をつかさどる法則としました。
この理論は、ガリレイ・ニュートンから続いてきた物理学の世界像、すなわち、未来は確定的に予測できるという考え方を、くつがえそうとしていました。

ニールス・ボーアは、未来を確率でしか予測できないとするこの理論を受け入れました。
一方、アインシュタインは、正確に未来を予測できる理論を求め続けました。

ニュートン力学で記述できる物理学的法則と、原子核内部のような極微世界の物理学的法則が違うということを受け入れたボーアの原子モデルは、原子核のまわりを粒子としての電子が回っているというものです。
一方、ド・ブロイは、光が粒子と波の両方の性質を持つということから、電子も波の性質を持つ粒子だと考えました。

コペンハーゲン解釈によれば、観測前、幅をもって空間に広がっていた電子の波は、[観測]することによって、幅のない針状の波に「収縮」します。

量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現されます。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束の収縮が起こる)と解釈します。

また、量子力学の観測問題における解釈のひとつとして、エヴェレットの多世界解釈というものもありますが、SFやラノベの世界によく登場するパラレルワールド的解釈です。

一つの電子が二つのスリットを通過する
では、電子がどちらのスリットを通っているかを確認しながら同じ実験を行ったらどうなるでしょう?
電子がどちらのスリットを通ったかを確かめると、その行為自体(観測)によって電子の波は収縮します。そして電子はスリットのどちらか一方しか通らないことになり、干渉縞はあらわれなくなります。
[出典:みるみる理解できる量子論(Newton別冊サイエンステキストシリーズ) ]

観測をすると、両方のスリットを同時に通らない粒子としてのふるまいをするということです。

現代の量子論の原子模型
電子は原子核のまわりを雲のようにおおっています。雲は多数の電子でできているのではなく、ひとつの電子がさまざまな位置に共存していることを表現したのがこの雲です。

アインシュタインは量子力学を決して認めない理由

観測していないときの状態を考えるとき、量子力学の最も奇妙な世界が広がります。
量子力学によれば、観測者が見ていないとき、電子は、どこか一つの場所にあるのではなく、電子は、確率にしたがって雲のように薄く広がっているのです。
そして、人間が観測した一瞬に、雲のような波は、一点の粒として姿を現します。
観測によるこの状態の急激な変化こそ、アインシュタインが、量子力学に反対した根本的な理由でした。

親愛なるボルン君。量子力学は大変印象的です。が、しかし、私の内なる声は、それはまだ本物ではないと私に言っております。この理論は、かなり多くのものをもたらします。しかし、われわれを創造主の神秘にほとんど近づけてくれません。いずれにしても、私は『神はサイコロ振りをしない』と確信しております。
アインシュタイン(1926年12月)

観測という人間の行為が、重大な問題となったとき、アインシュタインとボーアは、決定的にたもとを分かつのです。
観測されて、初めて現実は意味を持つ……それが、ボーアの結論でした。観測されていないときの現実を問うことは、もはや意味がないというのです。

一方アインシュタインは、観測に関わりなく、現実を確定的に説明できなければ、完全な理論といえないと信じていました。

同時に粒であり、波であることの仕組みを追究した謎物語は、ここで、現実とは何かという問いに発展していきます。
量子力学によると、人間が見ること:観測は、とても奇妙な役割を演じます。
人間が見ていないとき、電子は雲散霧消してしまうというのです。
しかし、人間が観察しようがしまいが、電子はある一点に必ず存在しているはずです。
私が見ているときにしか、月は存在しないのでしょうか?
[出典:アインシュタイン~物理学はいかに創られたか]

つまりアインシュタインは、人間の観測とは関係なく客観的な世界が存在しているのだ!と頑なに思い込んでいたからこそ、量子力学を受け入れることができなかったわけです。

カントはこのように考えていました。
参考:【ざっくり哲学解説】イマヌエル・カント

時間・空間、そして因果関係などは(通常は)、人間の存在に関わらず、世界そのものが成立するための条件だと考えられている。人間がいなくとも、時間・空間はあるし、因果関係も、世界そのものの側に属する法則である、と考えられている。

カントは、否! と言う。
そうではないのだ。

それらは、人間が世界を認識するための〈主観的〉条件であって、我々の認識を離れてはそれらは無なのである。
[出典:カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男]

アインシュタインのような一般的な物理学者は、世界が客観的に存在すると思っています。人間の認識とは一切関係なく時間・空間、時空間と因果関係、そして物理学の法則が存在していると思っているのです。

ところがカントは、人間の認識というものは、人間の主観を通さずして存在しない。因果関係、時間・空間の形式はありえないというのです。

アインシュタインの「私が見ているときにしか月は存在しないのでしょうか?」という問いに対して、カントはこう答えるのではないでしょうか。

アインシュタインさん、そんな感情的にならずにもうちょっと冷静になって考えてみませんか。もちろん、あなたが月を見ていないときでも月は存在しています。月を見ようとしたときだけ、月がポンと眼の前に現れるというのではないのです。つまり、物質世界は人間と分離して独立して存在しているのではないということです。人間と物質世界は分けられないということなのです」と。

EPRパラドックス

アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス
Einstein–Podolsky–Rosen paradox
量子力学の量子もつれ状態が局所性を(ある意味で)破るので、相対性理論と両立しないのではないかというパラドックスのことです。

クラインポッペン−ダンカンの偏光板実験

イギリスのスターリング大学、クラインポッペン−ダンカンの実験では、一つの原子から発生した二つの光の粒を左右に放ち、偏光レンズの傾きを変えて、その通り方を観測していきます。
アインシュタインがあり得ないとした二つの光の粒の一致が実験の結果、見られました。

量子力学によれば、たとえ、宇宙空間を遠く隔てても、一方の観測が一瞬のうちに他方に影響を及ぼすことになります。

量子力学では、二つに分かれた光の粒が、はるかな宇宙を隔てても、切り離すことのできない関係にあることを明らかにしました。

レンズを通るか通らないかの一致が、どんなに距離をおいても、瞬間に伝わるとすれば、光の速度を超えた何かがあるのでしょうか。

アインシュタインは言いました。
「幽霊のようなテレパシー。確率だけの予測。それを物理学と呼びたくはありません。自然は、もっと単純な美しさを持っているはずです。」

ボーアは言いました。
「その理論が正しくないなら『単純な美しさ』など何の意味も持たないのです。私たちは、古典物理学に慣れすぎました。ミクロの世界は、私たちの常識を越えたつながりを持っているのです。」

アインシュタインとタゴールの対話

自然の本質を人間はとらえることができるのか。アインシュタインは、彼のベルリン・カプートの別荘を訪れたインドの大詩人タゴールに、その自然観を語りました。1930年、アインシュタインが、量子力学者たちとの激しい論争を繰り広げていたころのことです。それは、詩人と科学者の、東洋と西洋の深いふちを隔てた対決であありました。

タゴール:この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も所詮は科学者の見方にすぎません。

アインシュタイン:しかし、真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか? たとえば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。

タゴール:それはその通りです。しかし、月は、あなたの意識になくても、他の人間の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月が存在しないことは同じです。

アインシュタイン:私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。

タゴール:しかし、科学は月も無数の原子がえがく現象であることを証明したではありませんか。あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも、無数の原子を見るのか。もし、人間の意識が、月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

タゴール:宇宙の実体について、二つの違った考え方があります。すなわちその一つは、人間性と関わりを持つ全体的統一としての世界であり、他は人間的要因とは無関係に独立したリアリティ、実在としての世界です。

アインシュタイン:それでは真理や美は、人間とは無関係に独立して存在しないというのですね?

タゴール:その通りです。

アインシュタイン:としますと、もし人間が存在しなくなれば、芸術的作品などもはや美しいとは言えなくなるのでしょうか?

タゴール:その通りです。

アインシュタイン:美についてのその考え方に私も同感ですが、こと真理に関しては承服いたしかねます。

タゴール:どうしてでしょう。真理は人間を通して実感されるものです。

アインシュタイン:この点、私は自分の考えが正しいことをうまく証明することはできませんが、それが私の宗教的信念なのです。

ハイゼンベルク:今日、われわれが原子の構造を見たとしよう。そこに、われわれは、何を見るであろうか。そこに見るのは、われわれの意識の構造そのものなのである。

アインシュタイン:私が、がんこな老いぼれだと見られていることは知っています。しかし、私はサイコロ遊びを信じません。誰かが、出発点からやり直した物理学を、百年後に、きっと作ってくれると思うのです。

時空は人間の思考が生み出した秩序に過ぎない。真の秩序は、人間の思考を越えたところに隠されている。私が思うには、存在というのは、科学の理論で説明できる限界をはるかに超えて、いわば、広がっているのです。

私たちの知っている時空は、いわば存在の一部なのです。ですから、隠れた秩序というものがあると思います。科学者が知っているのは、すべて、表に出た秩序なのです。

アインシュタインの一番弟子といわれたデヴィッド・ボーム(David Joseph Bohm)は、このように主張しました。

意識・精神の法則の探求

ブライアン・ジョセフソンは、ジョセフソン効果についての論文で、1973年にノーベル物理学賞を受賞しました。この理論を応用したジョセフソン素子は、コンピュータに使われています。

私は、精神が物質を生んだと考えています。私たちが、宇宙だと考えているものより以前から、精神が存在していて、時間と空間は、この精神の中から作り出されたのかも知れないと思います。

それは、人間の精神とは、ある意味で異なっています。しかし、ものを考え出すなど、精神の特質とされるものを持っているという点では同じです。

ただ、この精神は、人間の精神とは、何もかも、まるで違ったスケールを持っています。
この、いわば最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。

宇宙を創造した最高精神は、一種の『サイコキネシス(距離をおいて精神力で物を動かしたり変形したりすること。念動。)』のようなものだったと思います。精神と物質の相互作用です。

コペンハーゲン解釈

シュレーディンガーの論文は発表と同時に、プランクやアインシュタインから絶賛されました。

このシュレーディンガーの理論(「波動力学」)は、ミクロの世界を記述する量子力学の基本的な理論になったのです。
シュレーディンガー方程式が複素数を含むため、波動関数ψは複素関数であり、「複素数の波」だということになります。
複素数の波である波動関数ψ(プサイ)は、ある意味で「次元の違う波」であり、これを図に示すことは不可能なのです。
ただ、この波動関数ψの実数部分だけ、あるいは虚数部分だけを図示することは可能です。

この図では、波全体が1個の電子を表しています。
横軸は電子の波の広がり具合を示しており、これは電子が存在する場所が広がっている状態を示しています。波の振幅(高さや深さ)に相当するものが、波動関数の「大きさ」になります。これが、電子を波と考えたときの、1個の電子の姿です。

波動関数の物理的解釈は、ドイツの物理学者、マックス・ボルン(1882~1970年)によってなされました。結果的にいえばボルンは、波動関数ψの絶対値の2乗が、粒子(電子)がxという位置に存在する確率を表すと考えました。これが、ボルンの「波動関数の確率解釈」です。

ここで、ある[思考実験]をしてみましょう。
箱の中に、電子を1個だけ入れて閉じ込めます。波である電子は、箱の中である広がりを持って存在していることになります。

ここで実際にシュレーディンガーの波動方程式を用いて計算すると、電子の波は時間が経つにつれ、箱の中にほぼ均一に広がることがわかります。そこで、箱の中に仕切り板を入れて、箱の内部を2つに分けます。そうすれば、電子の波も2つに分けられるはずです。

箱の中には「1個の電子」を入れたはずです。
この場合、仕切り板によって分割された電子の波とは、いったい何を指しているのでしょうか?電子は究極の素粒子であり、1個の電子を細かく分割することは絶対にできないのです。電子は必ず右か左か、どちらかの空間だけで発見されるはずです。左右両方の空間で、半分に割れた電子が発見されることはあり得ません。

それではこの場合、「割れている」ものは──電子が左右どちらかの空間で発見されるという「確率」である──としたのです。
全体で1(100%)となる確率が“割れている”──とボルンは考えたのです。

このような波動関数の確率解釈を取り入れてボーアや、そのもとで量子論を研究していた若い物理学者たちは「私たちが電子を観測すると電子の波は収縮するのだ」「私たちが見ていないときだけ電子は波のように広がっている」と考えました。

波の広がり具合は、シュレーディンガー方程式で計算できます。ところがひとたび、私たちが電子を見たとたん、いろいろな場所に広がっていた電子の波が、ある場所だけにぎゅっと縮んでしまうのです。

電子の波がどの位置に収縮するのか、言い換えれば電子がどこで発見されるのかは、確率的に決まることになります。私たちが観測をやめると、電子の波は再び広がりはじめ、電子は「重ね合わせ」の状態に戻っていきます。

このように、「波の収縮」と「確率解釈」を2本の柱として、電子の振る舞いを理解しようとする、この解釈の仕方を「コペンハーゲン解釈」といいます。

一般相対性理論を唱えたアインシュタインは、自然現象が「決定論」として書き表せることを信じていました。

そのため彼は、「神はサイコロ遊びを好まない」という有名な言葉で、確率解釈などを柱とした「コペンハーゲン解釈」を批判しました。

もともとアインシュタインは無神論者です。ただここで彼がいっている「神」とは、“スピノザの神”と呼ばれている、あらゆる自然現象を貫いて決定する「究極の真理、原理」という意味で使われたようです。

[出典:アインシュタインの宇宙 最新宇宙学と謎の「宇宙項」/佐藤勝彦]

筆者は、アインシュタインのことを無神論者と言っていますが、ユダヤ人なのにユダヤ教を信じていないということで、すなわちユダヤ教やキリスト教でいういうところの唯一絶対神、宇宙から切り離された超越的な人格神というものを信じていないということです。

「コペンハーゲン解釈」に関しては、数多くの議論が続けられ、現在でもこれを認めない人もいるのですが、様々な考え方があるなかのひとつを紹介しましょう。

多世界解釈

ハンガリー生まれのアメリカの数学者フォン・ノイマン(1903~1957年)は、フォン・ノイマン型コンピュータの開発者としてもよく知られていますが、彼は量子論にも大きな影響を与えています。

1932年、フォン・ノイマンは自著『量子力学の数学的基礎』で、《コペンハーゲン解釈の基本仮定である“波の収縮”は、数学的に説明できない》、つまり、シュレーディンガー方程式からは「波の収縮」という現象の発生は導けないことを数学的に証明しました。

そこで、《“波の収縮”は、人間の意識の中で起こる》と結論づけたのです。
ならばいっそのこと、「波は収縮せず、広がったままだ」と考えればどうでしょうか。実はその発想の延長線上に「多世界解釈」という考え方が出てくるのです。

そう解釈すれば、可能性の数だけ(コペンハーゲン解釈でいう「重ね合わせ」を担っている状態の数だけ)次々と枝分かれを繰り返した宇宙のうちの1つが、私たちのいる現在の宇宙であり、同時に「私が“いない”宇宙」や「別の私がいる宇宙」など、並列で存在する別の宇宙、もしくはパラレルワールドが、どこかに存在している、というのです。

ただ現在でも、量子論の主流は「コペンハーゲン解釈」に基づくものであり、「多世界解釈」を採用する科学者は少数にとどまっています。

「コペンハーゲン解釈」によれば、観測前は可能なすべての状態が重なり合っており、観測行為が1つの状態を選び出し、その他の状態は消滅してしまいます。

ですが問題は、この「波動関数の収縮」がいったいどこで起こるかということです。この問題も、現在のところ明快には解決していません。観測結果を最終的に判断するのは人間の意識です。

「波動関数の収縮」は人間の脳の中で起こるとも考えられますが、そう認めれば人間の意識が現実を作り上げるということになります。これを受け入れていない物理学者は少なくないそうです。

[出典:アインシュタインの宇宙 最新宇宙学と謎の「宇宙項」/佐藤勝彦]

シュレーディンガーの猫

収縮がおきるのは、測定結果を人間が脳の中で認識したときだ

この考えに対し量子論の創始者の一人、エルヴィン・シュレーディンガーは次のような思考実験を使って批判しました。

毒ガス発生装置は放射線の検出器と連動しており、検出器の前には放射性をもつ原子を少量だけ含む鉱石を置きます。原子核がこわれて装置が放射線を検出すると、毒ガスが発生しネコは死んでしまいます。

さて、原子核の崩壊も量子論にしたがう現象です。原子核がいつ崩壊するかは確率的にしかわかりません。崩壊したかどうかを観測するまでは、原子核は崩壊した状態と崩壊していない状態が共存しています。

冒頭の解釈によれば、原子核が崩壊したかどうかは観測者が箱の窓を開け、中のネコが生きているかどうかを確認するまで決まらないことになります。

つまり、観測者が箱の中をのぞくまでは、ネコは死んでいる状態と生きている状態が共存していることになってしまいます。

シュレーディンガーは、冒頭の解釈は、半死半生のネコというばかげた存在をゆるすことになる、と強く批判したのです。

多くの科学者が採用する標準的なコペンハーゲン解釈では、「マクロな物体である放射線検出器が放射線を検出した段階で、原子核の波の収縮がおき、原子核の共存状態はくずれる」と考えるようです。
原子核の共存状態がくずれるため、半死半生のネコもありえないことになります。しかし「収縮がおきる理由は何か」といった問題は解決されていません。この思考実験は「シュレーディンガーのネコ」とよばれ、いまだに統一された解釈は確立していないのです。

[出典:アインシュタインの宇宙 最新宇宙学と謎の「宇宙項」/佐藤勝彦]

観測できる(意識がある)のは人間様だけ、と思いこんでいる限り、この問題は永遠に解けないのです。猫だって犬だって、花だって路傍の石ころにだって意識はあるのです。

ですから、”人間の観測”とか”人間の脳”とかが波の収縮を引き起こすのではなく、電子の側で”観測された”と意識するから収縮が起こると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

シュレディンガーが最も強く共鳴したのは、ヴェーダーンタ哲学の根幹をなす、「梵我一如ぼんがいちにょ」の思想です。

通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君は万有の中の万有であるということである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象の中のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味あいをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。

ただこの全体だけは、一瞥して見わたせるようなものではない。周知のようにバラモンたちはこれを、「そは汝なり」という神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明快なかの金言として表現した。それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。

[出典:わが世界観/シュレーディンガー(ちくま学芸文庫)]

最後にハイゼンベルクとボーアの言葉を紹介します。

■量子力学では、軌道という考え方そのものが存在しない。これにより物体は、物理的実体ではなく、観測者と物との間の出来事ということになった。前世紀における自然科学の客観的世界は、一つの理想的な極限概念であって、真実ではなかった。
[ハイゼンベルク]

■われわれは、仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである。
[ボーア]

 

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